どうも、タイヘイです。
「孤独のグルメ Season6」が始まりましたね。
「孤独のグルメ」の原作は20年も前の作品で、しかも2巻が出るまで間が空いて18年もの期間があったという珍しい作品です。
僕はかなり漫画を読む方です。
単行本だけでなく、漫画雑誌もジャンプやマガジンから始まってビッグコミックとかアフタヌーンまで月30冊以上読んでいます。
いわゆるグルメ漫画も「美味しんぼ」から「食戟のソーマ」まで読んでいるのですが、お説教臭かったり表現がオーバーすぎたりして以前はそれほど好きではありませんでした(今は感じ方が変わったのか普通に楽しめています)。
そんな中、当時1巻で完結していた「孤独のグルメ」だけが
これはなんか違うぞ?
と不思議な読後感を残したのが印象に残っています。
最近では「妖怪ウォッチ」など他作品でもちょこちょこパロディとして扱われていたり、自分の好きなものが認められたようで嬉しく思っています。
今日はそんな「孤独のグルメ」の魅力を数学っぽく要素別に因数分解することで分析してみたいと思います。
オッサンがただ飯を食べているという「日常系」
「孤独のグルメ」もSeason6になり、初めて井之頭五郎を演じる松重豊さんが制作発表の記者会見を行いました。
非常に面白いことに4月7日から放映なのにこの会見が行われたのが4月6日で前日なんですよね(笑)。
普段僕はTV、特にドラマはほとんど見ないのであまりこういったことには詳しくないのですが急すぎる感じがします。
でも「孤独のグルメ」ならしょうがないかな、と思う自分もいるのが不思議です。
この会見の中で松重豊さんは、
「おっさんが淡々と飯を食っているだけで、何が面白いのか今でもよくわかっていない」
という発言をされています。
僕もずっとそこが気になっていたんですよ。
原作1巻であったアームロックの話を除けば、「孤独のグルメ」作中ではほとんどドラマチックな展開は起こりません。
それなのについ最後まで漫画を読んでしまうし、ドラマも見てしまう。
普通のグルメ漫画だと、どっちが美味しいかという勝負をしたり、知られていないうんちくを語ったりしますが「孤独のグルメ」はそういった見どころがない作品なんです。
ただ僕自身、「孤独のグルメ」を初めて読んだときに比べて漫画はもちろんアニメを多く見るようになりました。
多くの作品に触れるとちょっと見えてきたものがあるんです。
ああ、「孤独のグルメ」は「日常系アニメ」を漫画やドラマでやってるんだな、と。
「日常系アニメ」と言われるとどういうイメージでしょうか?
僕が考える「日常系アニメ」は「けいおん」「らき☆すた」あたりから増えだした作品のことで最近だと「ガブリールドロップアウト」とかそのあたりの作品のことです。
要素的には、
- ほぼ男は出てこない
- 高校生ぐらいの女の子4人くらいがメインの登場人物
- 1クールで作品にオチがつかない1話完結を中心とした話の構成
- 「まんがタイムきらら」系列の雑誌で連載されている4コマ作品が多い
こんな感じだと思っています。
「孤独のグルメ」はおっさんひとりの話だからぜんぜん違うじゃないか、と思われるかもしれませんが、表面的要素を取り除くと話の軸がないのとか実は非常に一致しています。
もし「孤独のグルメ」をそれっぽくするとしたら、女子高生4人が学校帰りにファーストフード店に寄ったりコンビニで買い食いしたりしながらお喋りする、非常にそれっぽいお話になると思いませんか?
学生主人公で「ぼっち飯」をやってしまうと絵的に見てるのがつらいですが、おっさんが主人公だと行動範囲も広がるし一人での食事もおかしくありません。むしろ社会人にとっては共感できるポイントになります。
そういったわけで、僕は「孤独のグルメ」が「日常系アニメ」の要素を換骨奪胎して作った、グルメ漫画とは別系列の物語だと思うのです。
気取らない禅にも似た「和の心」
先にあげた「日常系」作品であることを象徴するように、「孤独のグルメ」は食欲を刺激されるという点を除けば非常に見ることに対してストレスを感じない作品です。
一言で表してしまうと「実家のような安心感」というやつですね。
主人公である井之頭五郎(以下ゴローちゃん)は食べることは好きですが、特に目立ったこだわりなどは見せません。
むしろ、こだわらないことにこだわっている感じすらします。
ご飯をかきこんで、
やっぱり俺は日本人だ
と言ったかと思えばカツサンドやらペルー料理やらピザやら色々なものに手を出します。
でも、実際には普段の食事ってそんなものですよね。
ただ普通の中年の食事とは違うところもあるんです。
それはゴローちゃんの「気取らなさ」。
例えばそれは懐かしいからと自販機でチェリオ(炭酸ジュース)を買ったりするところから見えてきます。
ピザ屋でコーラを頼むのとはちょっと違ってこれはリアルだと気恥ずかしさを覚える人も多いのではないでしょうか?
そして「孤独のグルメ」を語る上で外せない名言
「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由でなんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……」
ここからその思想(?)のようなものが見えてきます。
このセリフの回だけが「孤独のグルメ」の中でやはり異彩を放っています。
そして、流石にアームロックはやりすぎたかと中国人留学生のアルバイトにたしなめられたのを思い出して反省するゴローちゃんの姿が妙に可愛らしい。
お酒を飲めないというのも雑誌掲載時のページ数とか色々な理由があったらしいのですが、僕はゴローちゃんが酒が飲めなくて良かったなと思います。
基本的に「孤独のグルメ」はゴローちゃんの仕事の前、途中、後の食事を描いていますがお酒が入るとそこで自由度がなくなってしまう気がするんです。
原作者の久住昌之先生はドラマのおまけパートで見るようにお酒大好きな方なのでこれはつらい選択だったと思いますが、良いものが生まれるのって意外と完全に自由なときよりちょっと制限があるときの方なんですよね。
ゴローちゃんにはこだわりはないと言いましたが、しいて言えば餃子回で焼きそばにちょっとがっかりしたり、白飯が好きなことでしょうか。
そのあたり、原作をしっかり読み込んでいるのが「孤独のグルメ」のドラマの良いところ。Season6でも1話から「お好み焼き定食」を頼んでいます。
ただ白飯に対するこだわりもバリバリの保守的な思想とかそういったものではないのがこの作品の良いところ。
小さいときからそれを食べて育ってきたから習慣として身についているとか、そういう感じなんです。
このあたりは最近完結した「とんかつDJアゲ太郎」を読むと上手い表現をしているのでわかっていただけるかと思います。
禅みたいな「和の心」をゴローちゃんは持っていると思うのだけれど、それは空気を読む共同体の和というよりは自然に対してありのままを受け入れるといったイメージです。
自然食堂の定食が期待より美味しかったら素直にその味を認めて、さらにいわしカレーを頼んでしまう原作の話がそんなゴローちゃんの食に対する態度をうまく表していると思います。
随所に散りばめられるセンスある「パワーワード」
そんな「孤独のグルメ」ですがただの「日常系」というだけではここまで長く愛される作品にはなりません。
人気の出る作品というのはどこかであえてバランスを崩した突出した部分、人を引きつけるフックがあるものです。
それは作家の個性だったり必死に生み出したアイデアだったり、そもそも作品の持つテーマからにじみ出るものだったりします。
「孤独のグルメ」においてそんな気になる部分はなんだろうと考えたとき、やはりそれはゴローちゃんのモノローグだと思うのです。
「うーん…豚肉ととん汁でぶたがダブってしまった」
「焦るんじゃない、俺は腹が減っているだけなんだ」
「こういうの好きだなシンプルで ソースの味って男のコだよな」
このあたりは非常に独特のセンスですよね。
豚肉ととん汁~くらいならともかく、人間火力発電所とかソースの味って男のコとかはまず出てこないと思います。
長回しのセリフではない、ひょっとしたら作中で重要な内容も含まれていない、しかし人を引きつける「パワーワード」にあたるセリフがゴローちゃんのモノローグには多々含まれています。
これは先に話した、「食べることに対するこだわりを持たないこだわり」からにじみ出てくるものではないでしょうか?
そしてドラマがここまで続いている理由は元の設定や雰囲気を崩さず尊重した丁寧な作りが基本にあるだけではなく、このモノローグを上手く再現するように脚本家の方が頑張っていることが大きいような気がします。
ちょこちょこ言い過ぎだったり滑っているセリフがドラマではあるのですが、そのあたりも織り込んでBGMをちょっとコミカルにしてバランスを取っているのがうまい! と感じると同時に作品に対する愛を感じていいなあと思います。
今後も末永く今の雰囲気を崩さずにマイペースで続いていってほしい「孤独のグルメ」。
ドラマから入った人は漫画版も2巻でサッと読めますしオススメですよ。