凡才ですから

凡才だから努力して一日ひとつだけ強くなる。

「天気の子」感想&考察 他の物語と天気の子の構造がまったく異なるワケ

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注意:この記事には「天気の子」、「小説版:天気の子」ならびに「君の名は。」のネタバレが含まれます。

 

新海誠の作品を見にいくかどうか決めるとき、私はまず自分のメンタルの状態を確認する。
間違いなく面白いことはわかっている。
しかし、見終わった後の精神がどうなるかはわからない。

 

ジブリやディズニーの作品と異なり、新海誠作品は良い意味でしんどい。
見る前と見た後で自分の世界に対する見方を変えてしまうことも少なくない。

少なくとも間違いなく2、3日は物語の余韻を引きずる。

 

とにかくエネルギーを使う作品が多いのだ。

 

作品自体が体の内側の柔らかい部分を貫くような鋭さを持っている。
漫画家や小説家でも同じような作家は何人かいるが、アニメ監督ではそれほど多くない。
これはもう作家性としか言いようがない。

 

まあそんな感じでぐだぐだ悩み公開から10日ほど経って、ようやく覚悟が出来たので見に行ってきた(いろいろ考えていたら記事が2万字近くになり書き上げるのに1ヶ月かかってしまった)。

 

一言で言うと感想は、

 

すごく良かった!!


「君の名は。」よりもむしろ個人的には好き。
「天気の子」は何度も見たくなる作品だと感じた。

 

そんな「天気の子」の中で個人的に気になった部分や作品の解釈についてまとめてみる。


作品を語る上で私が見た後に注目したのは、他作品との構造の違いだ。

その上に、なぜ「天気の子」は賛否両論になるのかの議論を積み重ねていく。

他の物語と天気の子の構造がまったく異なるワケ

まず最初に、天気の子が非常に特殊な物語の動き出しをしていることに注目したい。

多くの物語において、主人公は他者の行動や偶発的な事故・事件に巻き込まれることで動き出す。

 

これは 「君の名は。」でもそうだし、平成にヒットした作品だと「エヴァンゲリオン」をはじめとして「機動戦士ガンダムSEED」「千と千尋の神隠し」「涼宮ハルヒの憂鬱」「魔法少女まどか☆マギカ」「ソードアート・オンライン」「ガールズ&パンツァー」あたりまでだいたい同じだ。

 

例外はスポーツや部活系・日常を描いた作品、一部の価値観や文化の異なる異世界を舞台としたジャンプ漫画「ONE PIECE」「ハンター×ハンター」、あらゆる面で例外的な作品である「鋼の錬金術師」くらい。

 

 

ほとんどの作品で主人公はなんとなく物足りない日常を送っていたり何らかの問題を抱えていて、それに直接対処するというよりもむしろ外部の要因に対処しながら自分を見つめ直していく。

 

ところが天気の子はこの物語の基本形に大きく反する。

 

主人公である帆高の動き(家出)によって物語が動き出し、ヒロインである陽菜との出会いを経てさらに自分から行動を起こして物語は展開していく。

後半に入り警察の介入やそこからの一連の動きと選択も結局は帆高の行動の結果であり、直接的な外部要因は「銃」と「振り続ける雨、及び陽菜の晴れ女としての能力」の2つしかない。

 

これは現実に近い世界を舞台にした物語だと、かなり稀な話の展開だ。

 

この点から、天気の子を見るときは他の物語を見るときと違った視点を持つ必要がある。

 

サラッと言ってしまうと、この主人公の行動からすべてが展開し、その結果として選択をする必要が生まれ、さらに行動する流れ。

行動→選択→行動の流れがこの作品を語る上で最も重要なキーワード「行動主義」である。

 

この視点で考えるとき、実は平成のヒット作で構造的に近い作品が2つある。

 

一つは「コードギアス 反逆のルルーシュ」であり、 

もう一つが最近新作の外伝がネーム形式で発表された「デスノート」である。

 

特殊な力を手に入れるまでは偶然だが、話の展開は主人公であるルルーシュと夜神月が他の人間と全く異なる行動原理で動くことから起きていく。

 

どちらもエンターテイメント性を重視しており、特にデスノートは作品の性質上、非常にデリケートに思想信条を深く語らないような展開となっている。

 

(逆に青年マンガだと考えさせることを意識した作品が多い。「寄生獣」など)

 

どちらも結末は最初から決められていたようだが、大まかなストーリーの流れはかなりライブ的に即興で作られていた感が強い。

 

そこからキャラクターの強烈な個性が描かれることになり名台詞がいくつも生まれたし、逆にコードギアス1期の終盤や2期後半の展開、デスノート第二部での失速や一部エピソードに対して粗の指摘も少なくない。

 

 

一方で天気の子は音楽や映像といった面では非常にエンターテイメントを意識しながら、しかし見る人によってはイライラしたりモヤッとしたものを感じさせる、2作品で排除された考えさせる作りを意図しているのが特徴である。

 

この点が「君の名は。」と「天気の子」の最大の違いでもある。

「君の名は。」は結局の所、あの展開にならざるをえなかった物語だ。

隕石から人々を救うことがヒロインの救済とイコールとなっており、主人公である瀧はヒロインと他の人々どちらかを救うかという選択を突きつけられてはいなかった。

 

(主人公とヒロインが再会できるかどうかだけ、ラストシーンの結末だけが監督に委ねられていたと新海誠ファンなら感じたかもしれない)

 

一方で「天気の子」は須賀の役割が製作中に大きく変わったり、ラストシーンをどうするかでRADWIMPSの歌の力が必要だったという小説のあとがきやインタビューからもわかるように、非常に不安定な可能性の中から形作られた物語なのである。

 

この物語は不安定さが根本にある。

それが魅力でもあり、見る人によって感じるイライラや違和感の原因にもなっているのである。

 

主人公が自分から動く作品は、スポーツや芸術など特殊な世界において勝利を目指したり成り上がりを目指すものと、この既存秩序に対する変革のストーリーラインの2つに分かれる。

 

先に上げた例外パターンでも触れたがONE PIECEやハンターハンター、鋼の錬金術師は「海賊王になる」「ハンターになる・父親を探す」「失った身体を取り戻す」という自分から動くタイプであるがどれも現実ではない世界での物語である。

 

「天気の子」はそんな例外的な構造の物語の中でも私達が住む東京を緻密に描き出している特殊な作品だ。

だからこそ自分の生きている世界の秩序が壊される感覚が生じやすく、それに対して感じる不快感やモヤモヤもでてきやすい。

これが作品に対するすっきりしない感覚の大きな要因の一つになっていると私は考えている。

 

見る人の所属階層とイライラ度

天気の子の感想で多かったのが、

 

主人公が犯罪を犯しているのに罰が軽すぎる、イライラした。

特に悪いことをしていない他人に迷惑をかけすぎ。

銃が必要だったのか疑問。

ラストのセリフ、「大丈夫」に違和感がある。

 

といったもの。

 

これについて先に触れた作品構造や不安定さとは別の角度からさらに掘り下げてみる。

 

 

警官も児童相談所もきちんとしている

イライラの原因は2つある。

一つは天気の子という物語は奇跡的なくらい大人がちゃんとした作品だということに起因する。

 

これはきちんと社会生活を送れている能力的な意味で大人というだけでなく、人格的に他者に無造作に当たり散らしたりもしないという意味だ。

 

言葉や行動が荒っぽくなる場合には妥当な理由があり、作中の大人たちははほとんどすべての場面において合理的に動いている。

 

大人になってから見るとまた少し視点が変わるが、現実に比べて物語の中では激する人が多い一方で、その怒りの原因の描き方が尺などの都合上不足していることが多い(エヴァンゲリオンなど)。

 

「天気の子」は特に前半部では大人のそういった感情の発露はかなり抑えた作りになっている。

警察や児童相談所の人たちは自分の職務をきちんと果たしているし、完璧ではないにせよ誠実に動いている。

 

メインキャラである須賀も若干うだつの上がらなさはあるが、妻の死からなんとか立ち直ろうとする不安定さをどこかで引きずりながらも、娘を思う気持ちと義母に対する社会的な対応、禁煙に対する取り組みなど間違いなくまっとうな大人である。

 

そんな大人の中で例外が2人だけいる。

1人は就職活動の最中である夏美であり、もう1人は話の展開を作るきっかけとなったスカウトマン鈴木(陽菜を勧誘し帆高を殴って銃で撃たれた男)である。

 

人に迷惑をかけるなという空気に対する反逆

MeToo運動や昨今のLGBTに対する認知、人種等の差別に対する批判など政治的・社会的に公正・中立を意図したポリティカル・コレクトネス=ポリコレという概念がある。

 

個人的な感覚としては、日本においてのポリコレはもともと言語・民族的な差異がほとんどないことからアメリカと同じようには機能しなかったように感じる。

 

ではどうなったかというと、小泉首相時に強く言われるようになった「自己責任論」と結びついて人に迷惑をかけるなという道徳とはまた少し異なる共通ルールの上に、他人に迷惑をかけなければ世界的風潮からも空気を読んで多様性を尊重しましょう。くらいの形になったのではないかというのが私が感じている今の日本の空気だ。

 

なぜこんな話を急にしたかというと、あまりにも丁寧に描かれた天気の子の作中では、きちんとした大人であればあるほどまともに働いている警察やJRの職員を気にかけてしまい、自分の願いのために秩序を踏みにじる帆高に反感をいだきやすい可能性があるということを知っておいてほしいからだ。

 

後に触れるが、そもそも帆高はまだしも陽菜の置かれた状況に対してはどこまで自己責任を求めるかはかなり慎重に議論されるべき問題のように思う。

 

見る人の年齢によって受け取り方が異なる話は多い。

しかし「天気の子」は年齢以外にも見る人の収入や社会的地位といった所属する階層によっても受け取り方が相当変わってくる話だ。

 

「天気の子」は物語中で絶対悪というものが存在せず、強いて言えば振り続ける雨がそれにあたるが、それにしても「君の名は。」の隕石に比べると危険度が大きく異なる。

 

もちろん、軽いところでは作中でも触れた結婚式が雨だと気分が盛り上がらないといったものから、やや重くなってくると花火大会やバザーであれば売上といった金銭的なマイナス、須賀の娘の体調などの問題もある。

 

もっと言えば、豪雨による地すべりなどでも人は亡くなるし、収入が無くなって間接的に首を吊った人もいたかもしれない。

 

だが、広く見れば雨の降り続ける日本に住み続ける選択もまた自己責任と言えなくはないのではないか?

 

自己責任というのは言葉にするとひどく単純化されてしまうが、結局はその中にも無数の段階があり、上手くいくかどうかには運も絡んでくる。

 

少なくとも、隕石に比べれば豪雨の影響はまだ回避しやすい。

 

「君の名は。」の隕石は当初、瀧以外に知るすべがなく、その伝達のためにかかるコミュニケーションコスト(時間と説得力)のせいで変電所爆破という手段を取らざるをえなかった。

 

物語の展開的にはありえないことではあるが、もしも三葉の世界がパラレルワールドで隕石が落ちない世界だったら相当大きな罪に問われたはずである。

 

当たり前の選択や絶対に正しい行動というものは存在しない。

結果次第でも見る人の見方によって受け取り方は大きく分かれる。

 

これが2つ目のキーワード「見る側の所属階層バイアス」だ。

 

 

きちんとした大人とこぼれ落ちる子供

スマホと貧困とバニラトラック

自己責任論では要因が貧困・格差に対する努力不足がしばしば指摘される。

 

「天気の子」はいっそ過剰なくらい日清食品を始めとして多くの商品や企業とのコラボレーションを果たしているが、その中でも異色なのが序盤に出てくる女性に対する風俗店等の職業紹介をするバニラトラックのシーンである。

 

このシーンが異色なのは、他の作品にあるように社会のバグ=犯罪としての性暴力ではなく、システムに組み込まれた商品としての性が日常の中にあるという当たり前の指摘をしたことにある。

 

結果としてこのシーンは陽菜がスカウトされるシーンの暗喩的な伏線となっていて、貧困と性を非常に強く結びつけている。

 

小説版にも書いてあるが、ヒロインである陽菜は事実上現在の高校生に必須となったスマホを持っていない。

これは陽菜の本来の年齢に対する伏線であり、貧困のわかりやすい描写の一つである。

(総務省調べで2018年において中学生のスマホ所持率は62%、高校生は93%)

 

ここからは推測となるが、陽菜がアルバイトをクビになった理由は、

 

・大人がちゃんとしていたことで年齢確認を行った

 

ことにあり、さらに

 

・年齢確認の発端はそもそもスマホを持っていなかったことに起因する

 

のではないかと私は考えている。

 

特に年齢確認については作中の大人に対する描写として、かなり説得力があるように思う。

 

子供の自己責任はどこまでが自己責任なのか?

陽菜と凪の姉弟の貧困に関しては、その根底に様々な不運がある。

 

母親を1年前に亡くしていること。

小説版も含めて父親にはまったく触れていない=死亡もしくは認知されていないこと。

祖父母などその他の頼れる親類がおそらく存在しないこと。

母親が子供二人が成人するまでの蓄えや保険をどうやら残さなかったらしいこと。

 

このあたりは推測が入るので確かなことはあまり言えない。

だが、職業として彼女たちに関わる大人がちゃんとしているのに対して、本来もっと繋がりの深いはずの血縁関係にある大人が周囲にいないのは非常に気になる。

 

保険金を狙うテンプレートな悪役としての親戚もいなければ、経済的には満足ではないが保護者としての役割を果たしてくれる祖父母もいないのだ。

 

(深読みするなら巫女としての役割を持っている母親や祖母がもともと短命で家庭に恵まれていない、もともと社会から弾かれた存在であった可能性もある)

 

さて、それらを受けた上で、陽菜が年齢を偽ってまで働いた理由はどうやら凪と離れ離れになるのが嫌だったからという理由らしい(児童相談所の言うことを聞くとバラバラの施設に入れられる)。

 

これは絶対に許されないほど悪いことなのか?

 

作中開始時点からあと10ヶ月ほど経過すれば、陽菜は中学を卒業しアルバイトも普通にできるようになる。

 

家での様子を見る限り、食事の用意や部屋の管理、洗濯などもきちんとされていて姉弟は金銭面以外では自立している。

 

(このあたり、大人に反発していた「火垂るの墓」に比べると陽菜と凪の姉弟はめちゃくちゃ聞き分けが良くて驚くほどだ)

 

もちろん児童相談所の人との話し合いの進め方がもっと上手ければ、あるいは公共の制度を利用すればもっと穏便に問題を解決できたかもしれない。

 

だが、それを親を亡くした中学生に求めるのがどこまで妥当なのか。

 

どこまでが自己責任で、どこからがそうでないのか。

 

昨今の虐待による子供の死亡事件では児童相談所にも多くの批判が寄せられている。

 

大半の大人は可能な限りまっとうであろうとしているが、システムは完璧ではなく、こぼれ落ちる部分は必ずある。

 

そもそも社会人同士がやりとりする大人の世界ですら、パワハラやモラハラがまだまだ多いのだ。

国や世界単位の経済状況で予算も決められてしまう、どうしても人の善意に頼る部分が多い福祉分野は完璧には程遠い。

 

奨学金など制度の利用で正論の解決策はある。

 

だがそれは「教育機会に恵まれた立場の人間の考え」だと思う。

税金の免除や生活保護といった制度は、それを受けるまでに手続きがありどれも中学生・高校生が1人で行うには相当難しい。

 場合によっては門前払いされることもあるだろう。

 

児童相談所との話し合いについても、正直なところ担当者次第であり、一般的な手続きはしてもらえるだろうが特別な配慮を受けられるかどうかは運に左右される(そしてこれはひそかに重要なことであるが、特別扱いはシステムの運用としては必ずしも正しくない)。

 

良い先生に巡り会えたとか、友人に恵まれたとか、親が教育熱心だったとか、あるいはその逆もある。

教育という点で見ると、人生はかなりの割合を運に左右されることを、自分は普通以上の環境で育ったと感じている人間は見落としがちである。

 

これは東大生の親の年収が高いことなど、統計から明らかになっている現代人が抱える大きな課題の一つだ。

 

生き残るために必要な知恵が、生き残れる人間にしか与えられていないのである。

 

(貧困から努力で抜け出したという武勇伝を語る人間は数字で見れば非常に稀であり、浮かび上がれなかった人間はまず努力するために必要なトレーニングやチャンスがあたえられていないことが多いのだ)

 

小学校低学年の頃、高学年の頃、中学校の頃、高校の頃、大学や専門学校の頃、社会人になってから。

それぞれの頃の自分を思い出して比較してほしい。

そして陽菜は高校生ではなく実際は中学生だということと合わせて考えてみてほしい。

 

見え方が変わってくる。

 

 

秀逸なバランスの大人のキャラデザ オペレーションと個人としての大人 

キャラクターデザインとしては天気の子はかなりバランスが秀逸で、帆高たち子供目線に立っても大人を完全には否定できない作りになっている。

 

パッと思いつく限りでも、

 

権力の側にいながらリーゼントを維持する一見ぶっきらぼうだが芯の有りそうな警察官

コミュ力のある美人が何社も受けても通らない就活の厳しさ

ブラック企業と揶揄されながら諸々込みだと8万から10万の給与を与えている須賀

 

などがある。

 

特にリーゼントの警官については、

帆高を警察へ搬送中のやるせなさを感じさせる表情・仕草

などが描かれていて単純な物語における障害以上の機微を感じる。

 

もうひとりの老刑事がコロンボや古畑任三郎、杉下右京のような老獪さを感じさせるのに対し、明らかに注意深く対比されているのだ。

 

若干妄想が入るが、このリーゼントの刑事のような人間が児童相談所の担当者ならそもそも「天気の子」の話はなかったように思う。

 

きちんとした大人が職務に忠実になり、あまりにオペレーションを優先しすぎて、個人の裁量や意思を押し通す余地が無いのが悪く出た例が陽菜の置かれた立場の要因ではないか。

 

(ただし、それが悪いというわけではない。拡大解釈や越権行為が裏目に出ることも多々ある)

 

逆に、小さいながらも会社を経営していて裁量のある須賀は帆高を受け入れ夏美に月給3000円をブラック企業と揶揄されながらも自分の意思を通している。

 

その行動は単純に良い悪いで片付けられることではない。

 

おそらく前科がついてしまうことと娘を引き取れない結果も引き起こすが、彼が本当に大切にしていたものを思い出させエピローグ部分では会社も大きくなり彼が「大丈夫になった」ことの原因ともなっているのだ。

 

(人を雇うという意味では須賀の帆高に対する待遇はブラック企業だが、そもそも須賀が帆高に与えたのは長く続ける前提の職ではなく一時的な避難場所としての意味合いが強いように思う。一般的なブラック企業が社員を使い捨てにするのとは話が違う)

 

大丈夫の違和感をフォローしたのは大人

物語ラストで帆高の言う「大丈夫」にはある種の違和感がある。

 

正直なところ、エピローグとの間の3年(実際は2年半)で帆高はあまり成長を感じられないのだ(これについては後で触れる)。

 

「大丈夫」には自分の選択は間違っていなかったという言い聞かせるような確認と、同時に降り止まない雨とそれに由来する被害に対する罪悪感がまずあって、その後にようやく自分の行動の肯定に至った複雑な経路を私には感じさせた。

 

その上で陽菜がきちんと制服を着ている=高校生になれた姿を見て安心し、彼女が自分のために祈り続けられるように強がってみせたというのがあのセリフの私なりの分析の一つだ。

 

あのセリフは帆高1人では出てこなかったと思う。

 

関係の深い須賀が茶化しながら、だがその実、彼自身が帆高の行動を受けて「大丈夫になった」ことを受けて発した言葉があればこそ。

 

関係の浅い「君の名は。」の瀧の祖母が歳も大きく離れ性別も異なる立場から、押し付けることなく自分の感じているままに発した言葉があればこそ。

 

複数の異なる大人が自分の言葉で語ったからこそ、帆高はあの言葉が出てきたのではないだろうか。

 

これはシステムの側ではなく、個人として語った言葉・した行動だけが人を動かすという象徴的な場面だと思う。

 

そしてあの言葉は過去のことに対する追認ではなく、「これからの人生を自分たちで大丈夫なものにしていく」というある種の誓約のように私には感じられた。

 

銃は必要だったのか?

批判の非常に大きい銃に関してだが、

 

話を展開させるため

帆高の成長を描くため

 

の2つの意味を持つアイテムとしてまずは見ることができる。

 

話を展開させるために使ったことはかなり賛否が分かれる。

帆高が拾う前に銃を捨てた男が作中にまったく絡んでこないのが物語に対する銃の必然性が不足していると感じる原因だが、おそらくこれはわざとである。

 

これには作中にいわゆる絶対悪的な存在を出さないとする監督の意思が感じられる。

 

その上でやはり帆高の銃に対する心情の説明不足は否めない。

 

撃ったあと廃ビルに放置されっぱなしだったが、帆高がその後、晴れ女ビジネスの最中に反省したり思い返すシーンが少なくとも1カットは必要だったように思う。

 

(具体的には凪のフットサルを応援に行った後、プレゼントについて話すシーンあたり。

今までの行動を振り返るにはあの前後がベストだったように思う)

 

一方で帆高の成長に関しては伏線もきちんとはられている。

 

帆高は銃を、

 

1発目は過剰防衛的な使用(相手は傷ついていないが当たっていた可能性もあった)。
2発目は完全に自分の意思で選択して脅しとして使用。
最後は脅しとしては使うが発砲はせず。


という形で扱っている。

 

(実際に小説版では殺人未遂に問われたことが書かれており、銃の扱いは日本ではかなり重い。成立要件などかなり怪しい面はあるし、実際は保護観察処分に終わっているが)

 

面白いのが、須賀のところに転がり込む前にネカフェで言われた「学べよ」という言葉を物語終盤ではきちんと受け入れている点だ。

 

あの時点において帆高は複数回同じことについて注意を受けているのがわかる。

つまり、経験や他人の言葉から学んでいないのだ。

 

その想像力の無さは結局自分を追いつめることになる。

1発目は覚悟も何もない状態で銃を使い、その結果として後半自分に不利な展開を引き起こしている。


しかし2発目は自分の意思で発砲先を選び、傷つけようとは考えていない。

3発目は警察に対して銃口を向けてこそいるが、発砲はしていない(コントロールしている)。

そしてここまでの行動の結果として須賀が動き、陽菜の元へ向かう手助けとなった。


帆高の視点から見ると銃の存在とその扱い方が行動に対する結果と彼自身の成長を表している。

 

これが「天気の子」におけるわかりやすい銃の意味。
主人公である帆高の成長を表すアイテムとしての役割だ。

 

だが、これはわかりやすい役割の1つでしかなく、銃には実際にはもっと深い意味が込められている。

 

 

社会のバグと半グレ未満

先にきちんとした大人の話をしたが、きちんとしていない大人も作中にわずかに存在する。

 

その1人が銃で撃たれたスカウトマン鈴木である。

 

厳密に言えば、彼にも家庭があることが明確に描かれており、その職業自体が直接的に反社会的ということではない。

 

だが帆高に撃たれる前の殴り方に関して言えば演出もあるが明らかに暴行罪か障害で訴えられるものだったし、陽菜のスカウトに関しても年齢確認を怠っている。

 

(警察から話を聞かれた際に関しても、まず銃のことよりも他のことが出てくるあたり後ろ暗いことが少なくなさそうである)

 

明確に暴力団ではない。

本人自身は振り込め詐欺などを行う暴力団以外の犯罪を行う半グレ集団でもない。

だが、グレーゾーンの商売や明らかになれば罪に問われる行為を行っている半グレ未満なのである。

 

うさんくさい健康食品や情報商材を売る会社に近いものがある。

 

これらに対抗するために、どこまでの行為が許されるのか?

 

素手で殴る蹴るの対処で回避できるならOK?

鉄パイプとか木刀で殴って痛めつけるくらいならOK?

催涙スプレーやスタンガンで対処したら?

予め準備しておいた場合と咄嗟に対処した場合の差は?

障害を負わしてしまったら?

刃物を使った場合、銃を使った場合との差は?

 

そもそも同じ現代でも世界観によって受け取り方がかなり異なるのではないか。

東京喰種のようなファンタジーを含む世界ならそこまで拒否感が出ないだろうし、異能のない極道漫画も拒否感はおそらく少なく、ヤンキー漫画では刃物や銃は少なからず拒否感が出るだろう。

 

重要なのは、ほぼ普通の人が生きているリアルな東京に近い世界で銃の存在が許されるかという点だ。

 

少なくとも、アメリカ人が「天気の子」を見た場合と日本人が「天気の子」を見た場合、銃に対する認識は一定程度異なるように思う。

 

さて、意見の分かれる主観的視点から離れてもう一度構造的に物語を俯瞰してみよう。

 

陽菜たち姉弟は貧困の中に生きており、自分の能力不足以上に不運と社会のシステムの不備、つまり社会のバグに貧困の原因がある。

 

警察がどんなに頑張っても全ての犯罪を予防することはできず、銃もまた社会のバグの現れの一つである。

 

風俗店に勤務することはきちんとした手続きや許可があれば認められているが、18歳未満などが行うことは許されていない。陽菜が仮に覚悟を決めていたとしてもバレれば摘発される社会のバグの一つである。

 

現代において正当防衛やスポーツを除いた暴力は禁止されており、帆高に対してそれが行われて見逃されてしまうこともまた社会のバグの一つである。

 

つまり、システム上の不備、社会のバグが根底にあり、その対抗策として銃が持ち出されたと構造的には捉えることができるのだ。

 

(そもそも銃を帆高が撃つ前に殴られた段階で警察が介入していれば、帆高も補導されて家出は終わり、陽菜の年齢は明らかにされスカウトマンも罪に問われ、陽菜と凪はばらばらに施設に入っていただろう)

 

もちろん、帆高は当初当事者ではなく自分から殴られる原因を作ったことや、仮に殴られたとしても銃で撃つのは当たっていなくても明らかにやりすぎである。

 

現実に似せて作られたこの不安定な物語では、全ては黒と白という二択ではなく、細かくジャッジがなされ因果が巡る。

 

特に何の覚悟もなく放たれた最初の弾丸は、おそらく陽菜が人柱として消える最後の一藁を引き起こした警察からの逃亡中に願った落雷を引き起こす原因となっているのである。

 

一方で、構造的に見るのであればこの銃が解決できるのは現実世界の問題だけであり(さらにリスクが伴う)、現実世界とはずれている帆高が陽菜を取り戻す空の上のシーンにおいては役に立たないことこそが自然である。

 

せっかく銃を出すのであれば、空の上のシーンにおいて龍を撃つのに使った方がよかったのでは? という話もあるがファンタジーやオカルトに対してリアルの力で立ち向かうのは、感情的になっている人を論理的に打ち負かそうとするようなものであり、構造的に取れない解決方法だったと私は考えている。

 

キモいと気持ち悪いの違い

「天気の子」では印象に残るセリフがいくつかある。

 

ひとつは陽菜がいなくなる前夜の「もう僕たちからなにも足さないで、引かないでください」。

あるいは最後の「大丈夫」などである。

 

そんなセリフの中で非常に上手く登場人物の感覚を言い表したのが、帆高が発砲したあとの廃ビルで陽菜に言われた「気持ち悪い」という言葉だ。

 

これはもう20年以上前の旧エヴァンゲリオンのパロディではなく、今の子供たちが普通に使う「キモイ」とは明確に異なる本心の発露である。

 

この時点ではほとんど見知らぬ人(=帆高)に救われた困惑、本物の銃とそれを実際に発砲した少年に対する恐怖、本心では望まない仕事から救われた安堵、それに対する自分の覚悟への失望、現状やこれからの生活への不安。

 

そういった容易には語り尽くせない絵の具の濁ったような感情が、あの言葉には込められている。

 

銃を手放した後の帆高に対する言動はそのちょっとした間のとり方も含め、手放しに賛美するわけでも拒絶するわけでもない、非常に生々しい感情の移り変わりを描いたシーンだ。

 

深読みになるが、陽菜が帆高に対して年齢を偽り続けたきっかけはこの発砲にあるように思う。

 

凪という弟を1年近く1人で保護してきた姉気質とでも言うべき陽菜の気性が、動き出したら止まらない帆高のある種の危うさを見抜いたのではないか。

 

そして帆高は「晴れ女」ビジネスで少しずついろいろな人と関わりゆっくりと成長していくが、物語終盤の暴走を引き起こすきっかけとなったのは警察署に連れて行かれる途中の陽菜の年齢を知ったシーンであることは明らかである。

 

その後警察署から廃ビルまで、夏美の手助けを受け、さらに3km~5km程度の疾走を経て銃を手に取るという時間経過も絶妙だ。

 

「時をかける少女」など、走るシーンが印象的な作品は多いが「天気の子」の線路疾走シーンには他作品のような疾走感はない。

 

むしろ息苦しさと、帆高の凡人らしさが目立つ描き方がされている。

 

作中での成長に加え、銃を再び手にするまでのこのクールダウンの時間の効果は想像以上に大きかったのではないだろうか。

 

特に陽菜の手を取って走った最初の発砲までに走った距離と比較して、おそらく5倍から10倍以上の距離・時間を走っているであろうことにはきちんと意味がある。

 

少なくとも、最初にわけもわからぬまま引き金を引いたときと、廃ビルでの銃の取り扱いはそれを扱う帆高の精神性が全く異なるのである。

 

エセ科学とセカイ系とつながりと統計的偏りの取り扱い

都市伝説とカルトが駆逐された平成の30年

「天気の子」の不安定さはある面では危うさをも感じさせる。

それは、超常的な力のコントロールによって現実世界を変革させてしまい、そこに十分な犠牲や代償が払われないことから生まれる勘違いの可能性だ。

 

言うまでもなく、現実においてある日突然特別ではない個人の意思で世界が変わることなどありえない。

 

(この場合の特別とは、資産や権力を保持しているかどうかということ)

 

物語においてはこの奇跡に対し、犠牲やそこに至るまでの苦労などで現実とのバランスを取って納得感を生み出している。

 

このバランスの取り方は主観によって大きく左右され、大抵の場合収支が完全には均衡しない。

 

「天気の子」においてはこのバランスの崩れが、

・陽菜1人と振り続ける雨の価値

・陽菜を救うのに支払った帆高の苦労

の2つの面に現れる。

 

そのバランスのずれ方が一定以下なら許容されるが、割合が大きくなるとご都合主義と批判の対象になる。

 

平成の30年はネットの普及も手伝って非常に多くのカルト的宗教や都市伝説が駆逐された。

創作においても、こういった現実の風潮はゆっくりと反映されている。

特にゼロ年代半ばくらいまでこういった登場人物の選択で世界がまるごと変わってしまういわゆるセカイ系と呼ばれる話が人気を博したが2010年頃にはほとんど死滅している。

 

「天気の子」はそんな潮流に逆行し、自分の選択で世界を変えたことを肯定している。

抽象化してみれば、いわばこれは、オカルトの肯定である。

 

これは地下鉄サリン事件やマスコミがさんざん盛り上げたノストラダムスの大予言の大外れを経験した30歳前後よりも上の世代からはひどく奇妙に映る。

 

そもそもセカイ系を扱った作品は万人に対して受け入れられる作品ではなく、多くがターゲットが非常に限られた美少女ゲームであった。

漫画やライトノベルなどにも見られはしたが、どう考えてもサブカルの域を出なかったと思う。

ジブリ作品に興行収入で勝つ監督が作るようなメインストリームの話とはイメージが異なりすぎるのである。

 

(逆にもっとディープな方に進んでバランスを取っているのが幾原邦彦監督作品である)

 

だが「天気の子」は単なるセカイ系ではなく、そこから一歩踏み出した現実的な進歩と、従来の物語では禁じ手とされた身も蓋もない理屈によってこのオカルトの肯定に対し別の意味をもたせている。

 

家族を肯定的に描く、2人よがりからの脱出

いわゆるセカイ系では、乗り越えるべき敵や状況が大きく立ちふさがっていて、その解決にヒロインが非常に重要で、味方となる存在の役割は小さい。

 

その上で、ヒロインを取るか、世界を取るかといったような選択が突きつけられたり何かを投げ捨てることで敵や状況に対抗する力を手に入れたりする。

(先に触れた、奇跡とのバランス収支はこれにあたる)

 

これまでは大体の場合、ヒロインも世界も救う、という第三の選択がなされることが多かった。

だが新海監督のインタビューでも触れられていたように日本は明確に貧しくなりつつあり、そういった中でどちらも救うという選択肢は本作では最初からなかったように思う。

 

ここからが重要だが、「天気の子」も基本的にはセカイ系と同じ構造をしているが、もう少し進歩がある。

 

それが陽菜の弟である凪の存在である。

 

この凪、作品を見た人なら分かる通り、非常に出来た、出来すぎた小学生である。

 

コミュニケーション能力や地頭といったものが非常に高いのが見て取れ、人格的にかなり成熟している。

 

従来ならそれまでヒロインの一番近くにいた弟から主人公がヒロインを奪う展開になり、ポジション的には置かれた状況や敵についで主人公に立ちふさがるもう一つのもっとも大きな壁となるような立ち位置だ。

 

だが、「天気の子」では凪はむしろ帆高にとってもっとも協力的な味方である。

 

最後の晩餐であるラブホテルのシーンにも凪は当たり前に存在しており、帆高は陽菜と凪を含めた3人でいることを強く願った。

 

このシーンをもってして、「天気の子」は2人きりの世界を描いたセカイ系を一歩進めているのである。

 

つまりそれは家族の肯定であり、ヒロイン1人だけではなく、その周囲をも肯定するということである。

 

これは他者による介入の余地を残す可能性と不安定さにもつながり、須賀の言葉を帆高がエピローグでまっさきに聞きにいったことにもつながっていると思う。

 

実際に、凪は廃ビルで帆高を助けてもいるが、「お前のせいだ」という言葉もぶつけている。

 

この話を聞く余地があるという点において、完全な世界が続かないことを受け入れ、ままならない現実を生きていく現実への回帰が示されているのがこれまでのセカイ系との違いである。

 

(勘違いが起こりうる帆高のラストの肯定はオカルトの肯定というよりもむしろ、選択と行動の肯定であり、後で触れるが帆高自身はむしろ陽菜を役割から解放するオカルトの否定を行っている)

 

 

統計的偏りという身も蓋もない解

これまで、多くの創作においていわゆる禁じ手とされてきたオチがいくつか存在している。

 

たとえばその一つが夢オチである。

 

主人公たちが努力しながら、ときに何かを失いながら克服した困難をその根っこの部分から破壊する非常に強力なオチで、特に意味のない単なる夢オチは非常に嫌われる。

 

それと同様に、あまり使われてこなかったのが、「運」の良し悪しで解決すべき課題が克服されてしまうパターンだ。

 

「天気の子」も「君の名は。」も世界観の根底がこの運に非常に左右されたパターンであり、特に「天気の子」は陽菜の能力もあって見ている人間は微妙に展開に対して納得しにくい。

 

簡単に言ってしまうと、

・そもそも東京で雨が振り続けていたのに陽菜や帆高に責任はない

・陽菜が能力を使わなければ雨はどこかで止んでいたかもしれないが、そうでなかったかもしれない

・エピローグまでの3年間で雨は振り続けているが、この先誰の手も借りず止む可能性も否定できない

・「晴れ女」で天気を変えた反動があったとしても、もともと運が悪くて振っていた雨に対する責任を混同しがち

この最後の部分に対して帆高の「世界を変えた」発言もあって見た人によって感想が変わりやすい。

 

(きれいな形で伏線が回収されてはいないが、魚の形をした雨や少年たちがくらった土砂降りは陽菜の能力の反動のように取ることができる)

 

運というのがオカルト的で受け取りにくければ、統計的偏りと言っても差し支えはない。

 

工場の管理された環境で生産された家電にも当たり外れがあるのと同じだ。

それはネジ1本の目に見えないほどの小さな歪みだったり、気温や湿度の変化で機械や素材が微妙に求めた水準とずれていたり、輸送途中での振動の影響だったり、もはや管理しきれないほど様々な要因が元になっていたりする。

 

物語は、この家電の例で言えば明確な設計ミス・人為的なミスに対して対処するものが多い。

だが天気というのはバタフライ効果などもあるように非常に小さい要因によって変わりうると考えられている。

 

物語前半の占い師の言葉はオカルトというより実際は当たり障りのないことをそれっぽく言っているバーナム効果のようにも思えるし(そもそも占いは統計だという人も多い)、須賀と夏美が取材に行った神社で聞いた話やエピローグで瀧の祖母が語った内容も統計的偏りのことを指している。

 

もっと長い単位で見れば、恐竜が生きていた時代は今よりももっと気温が高かったし、逆に氷河期などは気温が低かった。

 

人間の活動による地球温暖化の影響なども少なからずあるだろうが、統計的な偏りと長期的な地軸の傾きなどによる気候変化のトレンドは軽視されがちだ。

 

「天気の子」では、

・誰のせいでもない長期的な要因や統計的偏りによって起きた雨の部分

・過去を含む人間全体の責任による部分

・陽菜の能力で変えられた反動の部分

の3つによって雨が起きている。

 

帆高が異を唱えたのはこの前2つの部分に対して個人に責任を押し付けようとする狂った世界だったのである。

 

逆に言えば、陽菜の能力の反動に対しては物語的には責任を負う必要はある。

 

ただこれに関して言えばそもそもの原因は先にも触れた社会のバグ的な貧困にあるし、帆高と陽菜は「晴れ女」ビジネスの値付けにおいて非常に控えめな金額をつけている。

 

オカルト的な晴れを呼ぶという結果に対してではなく、相談に乗って相手の気持ちを晴らすことに対してお金をもらうくらいの感覚なら3400円という値段はそれほどおかしいものではないだろう。

 

力の反動に対しての責任は非常に小さくなるように物語が構築されているのである。

その唯一の例外が帆高を警察から救うために願った際の落雷であり、その後に力に対する責任として陽菜は消えることになった。

 

 

エピローグでのもともと東京は海に沈んでいたという話に対しては統計的偏りの例であり、

 

えぇ~!? そんなのアリ!?

 

と思わず言いたくなるような壮大な梯子外しが物語の根幹部分で確かに行われている。

「大いなる力には大いなる責任が伴う」と様々な物語で訓練されてきた視聴者は納得行かない思いを抱きがちだ。

 

だがこれは救いでもある。

 

「天気の子」には「君の名は。」の主要な登場人物が数多く登場している。

特に瀧と三葉の両主人公が出てきたのは驚いた人も多かっただろう。

 

2つの世界はパラレルワールドになっているが、雨のせいで「君の名は。」のラストシーンが「天気の子」の世界では起こらない可能性も考えられる。

前作のファンにとってはこれがちゃぶ台返しのように感じられ、モヤモヤするかもしれない。

 

だが小説版のエピローグで帆高が瀧の祖母を訪れたシーンで、「お孫さんの結婚写真」という一文があり、瀧と三葉が結婚した可能性はかなり高い。

 

よくよく考えてみれば、瀧と三葉の再会が電車ですれ違って例の階段にたどり着くという映画通りの展開でなければいけない必然性は存在しない。

 

つまり、どこで出会ったかについてはこれもまた運に左右されたものだったかもしれないのだ。

 

出会ったかもしれないし、出会わなかったかもしれない。

小説的には出会った可能性の方が高そうで、帆高や陽菜の行動でむしろそれが早まった可能性すらあるのだ。

 

(最後に触れるがどちらかというと、前作が因縁の話だったということもあってあの2人が再会する可能性は高かったと思う)

 

行動力という主人公のたった一つの資質 

最後に、なぜ帆高が主人公だったのかに触れる。

 

「君の名は。」は相性の良い2人が超自然的なものに選ばれて、出会って問題を解決して別れて再会する、運命とか因縁の物語だったと私は思っている。

 

逆に「天気の子」は、先にも触れたとおり帆高の自主的な家出から始まっている。

何者でもない普通の男の子が、特殊な力を持った女の子の特殊な力以外で救われた恩を返すため、行動力だけを武器にして彼女を役割から解放する物語である。

 

陽菜は貧困の中にいる不幸な少女であり、人に頼れない姉であり、特殊な力を持つやがて犠牲となる巫女でもある。

 

帆高は陽菜に家出してきたという自分の秘密を打ち明け、料理を褒め、ホームページの立ち上げを行うなどビジネスパートナーとなり、凪と打ち解け、須賀や夏美といった単なる客以上の大人と引き合わせた。

 

「晴れ女」のビジネスは陽菜が消える要因にもなったが、そもそも巫女としての力を出会う前に一度でも使ってしまった以上は人柱から解放するためには一度爆発させなければいけなかったようにも思う。

 

先に、見る人にはそれぞれ属する階層があるという話をしたが、それは登場人物にも当てはまる。

その階層を飛び越えるには努力はもちろん必要だが、それをできるという自信とエネルギーが必要だ(自己肯定感)。

 

何者でもない帆高は、その飛び抜けた行動力によって階層を飛び越え、周りの人にも飛び越えさせたのだ。

 

小説版だと夏美のモラトリアムの終わりが帆高をバイクで助けたあのシーンと重ねられており、非常にわかりやすく描かれている。

 

大人ではなかった夏美が、大人になった瞬間。

それをもたらしたのは帆高の行動力であり、熱量だった。

 

事務所の家賃を滞納していた須賀が「大丈夫」になるまで会社を立て直したのも、この熱量に当てられたのが大きかったはずだ。

 

銃が現実世界に風穴を開けるものだとしたら、帆高の行動力は人の心に風穴を開ける武器だったのである。

 

使われなかった手錠 役割からの解放

銃と合わせてもう一つ映像で見たときに象徴的なアイテムが手錠である。

 

廃ビルで警察に手錠をかけられた帆高は陽菜を追って空とつながる。

 

なぜ帆高が鳥居の向こう側、空の世界に行けたのかの説明はされていない。

通行手形のアイテムとしては陽菜にあげた指輪が戻ってきたこと、警察から逃げ線路を走った熱量がこちら側とあちら側をつなげる穴を開けたエネルギーとなったという見方もある。

個人的には陽菜がいなくなる前に秘密を打ち明けられ、その非現実的な姿を実際に見たことと抱き合ったことが鍵だったと考えている。

(眠っている間にキスされていて、水となった陽菜の一部を身体の中に持っていたというのはさすがに妄想かもしれない)

 

いずれにせよ、陽菜を連れ帰る「千と千尋の神隠し」のようなあのシーンで、普通の物語なら手錠で2人をつないでいただろう。

 

だが、新海監督はそうしなかった。

 

銃でも触れたようにファンタジーやオカルトの世界で現実の物体である手錠が力を発揮するのは納得がいかないという考え方もある。

 

もちろんそれもあるが帆高がやりたかったのが陽菜の役割からの解放であるなら、巫女になるきっかけとなった最初の祈りが陽菜自身で行われた以上、自分の意思で立ち上がることが結局は必要だ。

 

夏美や須賀が帆高を手伝い、自分を変えたのも最後は自分の意思だった。

 

単純に王子様によるお姫様に対する与えられた救済ではなく、自己責任の部分も含めてあくまで必要だったのは手助けであったということを示すために、あえて手錠を使わなかったと私は考えている。

 

令和を生きる若い人のためのサバイバルガイドとしての天気の子

ここから先は妄想が入るが、3年後の陽菜がきちんと高校に通えており、おそらく凪と離れ離れになっていないのは須賀かその周りの大人による手助けがあったのではないかと思う。

 

(罪に問われたであろう須賀が直接ではなく、誰か信頼できる人間に頭を下げて頼んだのかもしれない)

 

身元を保証してくれる大人がいれば彼女を助けてくれる制度の手続きや、様々な交渉もしやすい。

 

もしそうだとすれば、陽菜は帆高との出会いでようやく大人や他人を頼ることを学んだのである。

 

「天気の子」は特に20代前半までの若い人にとっては共感もしやすいし、学ぶべきことも多い。

 

特に、今を生き抜くためのサバイバルガイドとして3つの教訓がある。

 

1つ目は何より大切なのは行動力だということ。

2つ目は他人の力を借りれるくらいの緩やかなつながりの重要性。

3つ目は重要な所で判断を誤ると炎上したり罪に問われる可能性がある落とし穴の存在。

 

作中では帆高は須賀との出会いを始め、いくつもの幸運に恵まれている。

 

重要なのはどちらかというと、その幸運を活かせたことだったように思う。

 

それはどちらかというと能力の中でもスキルというよりも、行動力そのものではないだろうか。

 

その上で、一発退場を食らうような落とし穴にはまらないこともまた重要なのである。