読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

凡才ですから

凡才だから努力して一日ひとつだけ強くなる。スキル獲得とオタク知識の情報発信と記録。

「けものフレンズ」は「まどか☆マギカの呪い」をいかにして解いたのか。

 

f:id:taiheiex:20170329135458j:plain

 

 

アニメファンの間で大きな反響のあった「けものフレンズ」。
ニコニコ動画ではコメント数でヒット作「魔法少女まどか☆マギカ」や「ラブライブ!」を大きく突き放し、今を指すアニメの代名詞としての地位を得つつある。


一見すると単なるほのぼの系アニメの裏に隠されたポストアポカリプスの荒廃感、話が進むに連れて深まっていく不穏な空気。


そして視聴者を仰天させた11話ショック。


それらをすべて越えて12話まで駆け抜けた、たつき監督を始めとした製作者の方たちに素晴らしい作品を生み出してくれたことに感謝したい。


そしてなぜここまで「けものフレンズ」が僕達を熱狂の渦に巻き込んだのかについて
主に2010年代初期の人気作「魔法少女まどか☆マギカ」を中心としたアニメとの比較をまとめる。

 

旅をする「けものフレンズ」とどこにも行けない僕達と

とどまり続ける物語群。「エヴァンゲリオン」「涼宮ハルヒの憂鬱」「魔法少女まどか☆マギカ」

主にアニメーションの物語には2種類の形がある。

 

1つは学園ものを始めとした「とどまり続ける物語」。
もう1つは「けものフレンズ」でも見ることのできる「旅をする物語」だ。

 

もちろんキャラクターの精神的な成長は前者でもあるのだが、ここではそれはあえて省略する。
基本的な物語の設定としてどちらを選ぶかが物語により大きな影響を与えていると考えるからだ。

 

「新世紀エヴァンゲリオン」で碇シンジは第三新東京市を守るために(家出やマグマダイバーなど多少の遠出はあったものの)一箇所にとどまって戦った
(Qではアスカが宇宙に出ていたりヴンダーが世界を旅しているのは時代の変化を反映しているように思える)。


「涼宮ハルヒの憂鬱」でもハルヒやキョンたちは学園に居続けるし、「閉鎖空間」や「消失世界」においてもそれは現実との対比に過ぎず旅というほど遠くへは行かない。


「魔法少女まどか☆マギカ」においても登場人物たちは(主に暁美ほむらに関して多少の設定的なトリッキーさはあったとしても)見滝原市という街の中で戦い、決断する。

 

一方で外を旅する物語で有名なのはやはり「ガンダム」シリーズだ。
他で有名作品だと「鋼の錬金術師」「ジョジョの奇妙な冒険」あたりになるだろう。


文字通り冒険した作りになるため名作として愛された原作付きが丁寧に作られるか、あるいはオリジナルだとかなりの割合が想定した人気を得られずいわゆる爆死で消えることも多い。

 

「けものフレンズ」はかばんちゃんの秘密を求めて各ちほーを巡る「旅をする物語」だ。
成功の理由として軸をブラさずに最後まで貫いたことと、地に足の着いた設定というものがあったように思う。

 

「旅をする物語」は設定上、移動範囲を考えた結果ロボットに乗って戦う主人公を描くことが多い。
あるいはいわゆるドラゴンクエストやロードス島戦記を源流にする「剣と魔法のファンタジー」であるかのいずれかがほとんどだろう。

 

ロボットものはガンダムが圧倒的に強く、それ以外で成功したのは「とどまる物語である学園もの」要素の強い「コードギアス」くらいだろうか
(ファフナーやエウレカセブン、マクロスシリーズなどはヒットはしたが年代を代表するとまではいかないレベルだろう)。

 

「剣と魔法のファンタジー」は「ゼロの使い魔」で再び光が当てられたがそれ以来「リアルに旅をする」作品は話題にあまり上らなくなった。


昨今ではSAO(ソードアートオンライン)あたりのVRMMOやゲームを元にした異世界ものに形を変えており、
あるいは「オーバーロード」のように主人公は全能に近い力を有するのが基本形となった結果、もはや危険を伴いつつ「旅をする」ことはリアルではなくなった。

 

「けものフレンズ」は(ラッキビーストというキャラクターはいるが)「ロボットアニメ」でも「剣と魔法のファンタジー」のどちらでもない。


強いてあげるならSF要素と旅をするという点で「カウボーイビバップ」が一番近い(「スペースダンディ」は知名度的に厳しい)。


しかし、「けものフレンズ」が最初から最後まで「自分探し」という縦軸を貫いたのに比べると
基本的にアニメーションとしての1話完結型の面白さを追求した結果、
明確な軸を持たずに終盤で話が急展開する「カウボーイビバップ」は今から見ると作り手のこなれてない感が漂っているように思える。

 

縦軸をぶらさず、しかし完全に心地よいだけの世界ではなくセルリアンという理不尽な脅威と向き合いながらかばんちゃんは地に足をつけて旅をした。
行き当たりばったりではない作り手の矜持が根底にある作品だと思う。

 

どんどんと強くなる時代の閉塞感を逆説的に象徴するセリフ「すごーい!」「たのしー!」だけで見て見ぬふりをするのではなく、
あえてセルリアンという脅威を残し11話でそれとの対峙を描いたことに意味があった。

 

ソーシャルゲームが元ネタの作品だと設定改変も多く、
特に「けものフレンズ」ではセルリアンの設定が消される可能性も十二分にあっただろう。

 

あえて残したことは作品を作る上で一番の冒険だったはずだ。
しかしたつき監督たち作り手たちは無難な作品を作ることを良しとはしなかった。

 

フレンズたちのキャラクターデザインが「ケロロ軍曹」の吉崎観音氏であったことも大きいように思う。
少年エースで連載されていた漫画版「エヴァンゲリオン」を近くで見ながら使徒の擬人化や
超クオリティで初代ドラクエモンスターズをコミカライズした
「ドラゴンクエストモンスターズプラス」が(おそらくガンガンの大人の事情で)打ち切りを食らった経験が影響していたのではないか。

 

「何をやっても(時代や環境など自分以外のせいで)駄目なときは駄目」そんなある種の諦観。
「でもそれは私がベストを尽くさない理由にはならないよね?」そう問いかける反骨心的な気概。

 

そしてソーシャルゲームやコミカライズの終了という厳しい条件の中で、
「けものフレンズ」は見事に逆襲の一撃を決めた。

 

スタッフの数(声優含む)や予算はかなり厳しかったようだ。
それでも時間と情熱をかけて丁寧に作り上げた結果が形になったことには見事という言葉しか出てこない。

「Fate」は6年かけて冬木市から月へ、12年かけて時すら超えて世界を巡った

「エヴァンゲリオン」が新劇場版で第三新東京市から外に出たことは象徴的だが、
発表から継続的にコンテンツを出し続けて時代の流れを捉えた作品がある。
Fateシリーズだ。

 

もともとは冬木市で行われる願いを叶えるためのバトルロイヤル、聖杯戦争を描いていた「Fate/stay night」。

 

爆発的人気で成年向けPCゲームからアニメ化・漫画化で知名度を上げ、「まどか☆マギカ」の脚本を書く前の虚淵玄氏によって
作品の過去を描いた「Zero」の発表を経て「stay night」のコンシューマーゲーム化。


その後も人気はとどまらず、「stay night」から6年かけて平行世界の未来の月での聖杯戦争を描いた「EXTRA」で世界を広げた。

 

そして「stay night」から12年かけて発表されたソーシャルゲーム「GrandOrder」は時間と空間を超越した旅をして1年かけて世界を救った。
(「GrandOrder」は他のソーシャルゲームと一線を画するシナリオ量を誇り、
すぐにでもADV化、大きな方針は悩まずにアニメ化できるレベルのしっかりしたテキストが組み込まれている)

 

そう、「Fate」は「とどまる物語」から「旅をする物語」へと姿を変えたのである。


時代の流れを鋭敏に感じ取り、作品のポテンシャルを見極めながら新たな境地を開拓したライターの奈須きのこ氏の才能は脱帽ものである。

(シリーズの発表は、Fate/stay night→hollow ataraxia→Zero(ライター:虚淵玄氏)→Extra(CCC含む)→GrandOrderという流れ)


しかし設定の非常に細かいFateの世界観を持ってすら、「旅をする物語」を書くことは冒険であり、そこにたどり着くのに長い時間を必要とした。


いや、そもそも作品の深さを求めると「旅をする物語」は細かい設定やキャラクターを描ききるには1クール12,3話では尺が足りない。
そして物語の筋を通す縦軸を維持するには一定の設定は不可欠というそもそもの矛盾をはらんでいる。

 

「旅をする物語」の代名詞であるガンダムは比較対象としてはシリーズで培ってきたニュータイプという設定がある程度衆知されていたり
最低2クール(Gのレコンギスタ)、多くが(分割を含んだ)4クール(SEED・00・鉄血のオルフェンズ)という
一定の尺がほとんど保証されていることもありそもそもの条件が異なる。

 

「けものフレンズ」では終了してしまったソーシャルゲームの設定も上手く使い、限られた話数でその世界観とテーマ性を両立させることに成功した。
そして設定がソーシャルゲームと異なる部分には理由がある。

 

設定と物語の進行のバランスを上手く取る、作り手の緻密な計算があったことは想像に難くない。
その上で「旅をする物語」に耐えうる物語の強度を作り上げたのが既にある種の奇跡と言っても良い。


サービスが終了したソーシャルゲームをプレイしていた層の作品に対するTwitterでのつぶやきなどを見てもその巧みさは際立って明らかだ。
それだけでも「けものフレンズ」の凄さがよくわかると思う。

 

オタク文化はゼロ年代を経て薄く広く外へ。中と外との二重構造を描いた「けものフレンズ」

ゼロ年代後半、「涼宮ハルヒの憂鬱」「けいおん!」「コードギアス」あたりで
オタク文化がかなり広く受け入れられるタイミングがあったように感じる。

 

このあたりはそもそもメジャーなジャンプの作品である「ワンピース」など人気作品が2000年前後からいくつも市民権を得たこと、
ニコニコ動画から始まる動画サービスの台頭によって深夜アニメの時間が徐々に自由になったことと深く関わっているだろう。

 

その上で、「怪盗ロワイヤル」などのガラケーソシャゲからスマホソシャゲ「パズドラ」へとオタク的なものはさらに薄められて広まり、
「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」あたりで
オタク向けっぽくないアニメの登場もあってドラマよりもアニメが面白いと感じる若年層が一気に増えたと思う。

 

「艦これ」や「Fate/GrandOrder」「アイドルマスターシンデレラガールズ」がソシャゲとして成功したのに対し、
「けものフレンズ」のソーシャルゲームははっきり言って失敗に終わった。

 

それでも「けものフレンズ」のアニメはヒットした。

 

作品の持つポテンシャルというのは描き方次第でこれほどまでに変化するのか――。

 

これはアニメ・ゲーム・漫画・ライトノベルといったメディアミックス戦略を取る組織化された作り手たちが強く意識するべき課題の一つだろう。

 

典型的なオタクのイメージを持つ濃いオタク層とカジュアルでライトなオタク層の二重構造。

 

各ちほーを巡る「旅をする物語」ロードムービーであるとともに、しかし「けものフレンズ」はそれだけではない。
各ちほーは「ジャパリパーク」という閉じられた島での出来事を描いたものでもあり、「とどまり続ける物語」との二重構造でもある。

 

一見して「らき☆すた」以来のほのぼのとしたアニメの皮を被りながら
ツチノコというある種のファンタジーをまとったフレンズによって人類は既に滅んでいることが示唆された4話の衝撃。


いわゆる濃いオタクたちはこの4話で「まどか☆マギカ」3話のマミさんが退場するという不意打ち的な転換点の追体験をしたのではないか。

 

そしてエンディングでの背景が荒廃した遊園地であることなどが地味に考察され、
折り返しの後、7話で人類が現在と同じ形では生き残っていないある意味で「絶滅した」という事実が語られる。

 

安心と不安の二重構造が確定した瞬間でもある。

 

しかし、物語の根底にある「けものはいてものけものはいない」優しさはブレることがない。


11話で衝撃の引きを迎えてなお、ハッピーエンドと鬱エンドの確率は半々程度だと思わせたのはその基本軸がブレなかったからだろう。
そしてあるいはどちらの結末でもおそらく少なくない視聴者たちは納得していたのではないか。

 

そういう説得力を保ったままで少しだけ期待値を超えて見事に物語を着地させた作品はほとんど覚えがない。

 

自分の正体を知った後で「島に残るか」「島の外へ行くか」の二択を(状況に流される部分はあるにせよ主体的に)選択したかばんちゃん。
そして積み上げてきたもののおかげで選択した結果の期待値より少しだけ上回るラストにはこみ上げてくるものがあった。

 

世界のすべてが思い通りになるなんて思ってはいないけれど、
積み重ねてきたもので理不尽にほんの少しくらいは抗うことはできるかもしれない。

 

そういった絶望の後の世界をどうやって生きていくのかを直接的ではなく、
より多くの人に伝えるためにメタファーとして描いたのが「けものフレンズ」だったように思う。

 

どこへでも行けるなんて無責任なことはもう言える時代じゃない。
「食べないでください」と逃げても良い。それでもそのときにできる努力がいつか実を結ぶこともある。選択の全部が無駄になるわけではない。
生きることを諦めないでほしい。そんな温かいメッセージが「けものフレンズ」という作品のその裏には確実にある。

 

「商業主義」という呪い。アニメは採算を取るために無駄を削り落とし続けてきた

1クール制の残酷さ コードギアスの成功とGのレコンギスタの酷評について

特に2000年代に入りアニメは作品の本数が増えるのと反比例して話数が減った。
象徴的には4クールの「ガンダムSEED」、分割4クールの「ガンダム00」、2クールの「Gのレコンギスタ」だろう。
(1クールは3ヶ月で約13話前後。2クールは半年、4クールは1年。分割は話に一定の区切りをつけ放映期間をずらして2回行うこと)

 

例外は「サザエさん」や「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」といった長寿系番組、
「プリキュア」のように1年の放映が確約されている枠がある場合と、
「ジョジョの奇妙な冒険」や「うしおととら」(分割3クールという非常に珍しい形)のような完結済み(あるいは物語として非常に切りの良いポイントを持つ)人気作くらいだ。

 

テレビの視聴率が落ち、スポンサーが着くのが難しくなった結果もあり
時代が進むに連れ4クールが2クールに、2クールが1クールにとどんどん話数は削られていった。

 

原作が既に一定の評価を得た人気作なら2クール、それ以外はほぼ1クールが現在のアニメの定番となっている。

 

「けものフレンズ」は原作のソーシャルゲームが打ち切られたことから元の人気も容易に想像でき、1クールの作品だ。
それどころかソーシャルゲームで最大級の知名度を誇る「艦これ」ですら1クールというのが現実である(劇場版が造られた分優遇されているが)。

 

分割に関しては「GANTZ」あたりも分割2クールを行っていたが、
やはりヒット作「コードギアス」がオリジナルで長い作品をやるのにあたって本格的に分割4クールを取り入れたのが原点だろう。

 

人気が出れば25,6話を1回じゃなくて2回やらせてあげてもいいよ。
(総集編が入るかどうかはスケジュールとか次第。「キルラキル」はすごい!)
採算取れないなら諦めてね。

 

さながら週刊マンガの打ち切りを決めるアンケートである。

 

「コードギアス」は前期の最後が投げっぱなしだったり、
細かいところで突っ込みどころが多いが基本軸はブレずに最後はきちんと着地させるバランスを持っていた。

 

一方で「ガンダム00」は人気シリーズであるガンダムの宿命として描くことが複雑化されすぎた結果、
成功は収めたものの分割作品であることがマイナスに働きあと一歩基本軸が弱かったように思える。

 

ガンダムシリーズの産みの親である富野監督が近年作った作品である「Gのレコンギスタ」は一部を除いて基本的には酷評されていることが多い。
監督の体力的な問題とアニメ業界の現状で2クールが限界という話だったが、
どちらかと言えば同富野監督作品「OVERMANキングゲイナー」が2クールであったことも考えると後者の要因が強いのではないか。

 

しかし、この「Gのレコンギスタ」。

 

主人公の造形が今っぽすぎて共感できない、後半の勢力が入り乱れすぎて分かりにくいなど指摘される問題点は一定の説得力を持つものの、


アニメーションとしてはつまらなくない。


いや、むしろ面白いのである。

 

ごく少数熱狂的なファンのいるのが「Gのレコンギスタ」である。
縦軸は間違いなくしっかりとしているのだ。しかし、わかりやすさが足りなすぎる。

 

翻ってガンプラを題材にした「ビルドファイターズ」などはスカッと見れる作品ではあるが、縦軸がどうも弱い。
トーナメント制のいわゆる甲子園で優勝的な話でエンターテイメント以上の残る何かが存在していないのだ。

 

数字的にわかりやすい売り上げなどを商業的には評価する。
しかしそれを超えた何かを評価するにはそれだけでは不足している。
(もちろん、一定以上の売り上げはいる。その点において「Gのレコンギスタ」はガンダムとしての要求を満たせなかったという批評は間違いない)

 

そういった意味では「涼宮ハルヒの憂鬱」や「魔法少女まどか☆マギカ」は売り上げ以上の何かがあった作品だった。


そして、DVDやブルーレイといったいわゆる円盤の売り上げは既に一定ラインを超えており(書籍枠で売っている特殊な販売形態なので比較は難しいという声もあるにせよ)、
Twitterの勢いやニコニコ動画のコメント数から言えば「けものフレンズ」もまたそういった「商業的な評価を満たした上でそれを超えた何か」を持つ作品の一つなのである。

CGは壁を突き破りつつある。「009 RE:CYBORG」「蒼き鋼のアルペジオ」という事件・進化を続けるプリキュアのエンディング

CGがアニメの世界を変えたのはPixarの「トイ・ストーリー」が最初だった。
しかし、巨額の予算やCGクリエイターの確保などの問題があり、
日本国内ではこれというCGアニメは中々出てこなかった。

 

「STAND BY ME ドラえもん」は原作が国民的作品で全体的に飛び道具であると考えると、
日本におけるCGのアニメでの普及は(劇場版ファイナルファンタジーCGアニメの爆死を無視すると)2002年の「攻殻機動隊」TVシリーズで自動車がCGで描かれたのが印象的だったように思う。

 

その後、同神山健治監督によるサイボーグ009の映画版「009 RE:CYBORG」で
描かれた009の加速装置シーンと003の濃厚なキスシーンで、
「ああ、日本のCGもここまでのレベルになったのか。戦い方次第ではPixarに勝てるな」という感想を得たのが10年後の2012年のことだ。

 

そして翌2013年、TVシリーズ「蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-」で本格的に一つCGは壁を超えたなと感じた。

 

映画版とは異なり予算や製作期間に限りのあるTVシリーズで、
キャラクターたちがメンタルモデルという人間ではないAI的な存在であることや
潜水艦や戦艦といった機械が多く描かれているもともとCGと相性のいい作品であることを差し引いても素晴らしい出来だったのである。

 

2014年の「シドニアの騎士」は逆に機械を描くには良いが人間を描くにはまだ厳しさが残るかな、
というある種の課題を浮かび上がらせたように思う。
(とは言っても原作者である弐瓶勉氏独特の絵柄とSF世界観との相性を考えると、CGでの制作は限りなくベストに近いベターだった)

 

比較という観点だとプリキュアシリーズもエンディングでキャラクターのダンスを長年に渡って描き続けており、
こちらはアイドル作品的なモーションキャプチャー、動きを重視したCGの進化を見ることができて面白い。

 

特に引いた画面で見るとぎこちなさの残る「フレッシュプリキュア!」と
最新作の「キラキラ☆プリキュアアラモード」を見比べると10年の進歩に驚くだろう。

 

そして、2017年。「けものフレンズ」はCGで作られた作品である。

 

人間はかばんちゃんのみ(ミライさんは映像での登場なのでやや特殊)。
それ以外は人間と動物を組み合わせたフレンズ。いわゆる擬人化されたキャラクターである。

(ラッキビーストは機械というよりマスコットでCGと相性の良い造形なのであまり気にならないし、
セルリアンはエヴァの使徒のようなものなのでCG以外に描き用がない)

 

キャラクターの動きと主に2次元のイラストで描かれた表情をどう上手く組み合わせて3次元のCGに落とし込むか。

 

CGを使うという点において、おそらく予算という制約を含めても含めなくても現状のベストが出た作品――。

 

予算以外の作品の相性という観点、キャラクターや演出次第で積極的に
手描き(セルアニメ)ではなくCGを選ぶという選択肢を広める契機。

 

「けものフレンズ」にはそういった功績もあるのではないだろうか。

 

この点において「まどか☆マギカ」の独特のコラージュを使った異空間の描き方が作品を選ぶのに対し、
「けものフレンズ」は現代のアニメーションの課題の一つに(あるいは予算的制約が背景にあったにせよ)真正面から取り組んだように思う。

 

後追いで生まれた「残虐系魔法少女もの」の多くがその作品独自の表現しようとしたものは何かという点において二匹目のドジョウを超えることなく、
続編が作られるほどの成功もできずに消えていったこともこのあたりの事情と深く関わっているように感じずにはいられない。

 

ソーシャルゲーム課金はコンテンツに還元されるのか? アイドルマスターとけものフレンズについて

一定層に嫌われつつも採算を取るための必要悪として認知されたパチンコやパチスロ。
その流れが変わりつつあるのはソーシャルゲームの登場もその一因であることに疑いはないだろう。

 

「ツインエンジェル」あたりでパチンコ・パチスロオリジナル原作がアニメからの輸入とは逆の方向でアニメ化された後、
翌年の2012年に「戦国コレクション」がソーシャルゲームからアニメ化したことがおそらくは最初。

以降、GREEの「探検ドリランド」が2度アニメ化したがそれほど大きな影響はなかった。


一方でソーシャルゲーム原作の期待値を超えた2014年の「神撃のバハムート GENESIS」が新しい水流の経路を密かに削ったように思う。

 

その後、2015年に商業的には成功したがアニメーションとしては主に脚本の出来が酷評されることの多い「艦これ」と
ゲームセンターでのプレイからコンシューマ版へ移行し、一方で設定改変されてロボアニメにされた2007年のゼノグラシアでの鬱憤を晴らすかのように、
圧倒的クオリティでアイドルアニメの金字塔を打ち立てた「THE IDOLM@STER」の対比が印象的だ。

 

「THE IDOLM@STER」はソーシャルゲームに適合させるため、コンシューマ版にはいなかった圧倒されるほどの数の新規アイドルを投入し、
「アイドルマスター シンデレラガールズ」としてソーシャルゲームのサービスを開始。

 

すべてのキャラとはいかないにせよ新規のアイドルに声をつけたりオリジナル曲やお家芸の営業はどうやってとってきたんだ!? と言われるカバー曲のCDを発売。


「デレマス」は「アイマス」の流れをちゃんと汲んでいるという姿勢を明らかにしたのは大きかった。


満を持しての分割2クール。

 

俺達の課金は無駄じゃなかった。

 

そう言わせるクオリティでのアニメ化。
作品の質においても売り上げの面でも「艦これ」に倍以上の差をつけて黙らせたのは記憶に新しい。

 

「Fate/GrandOrder」に関しては序章が年末特番でアニメ化されており、
コンテンツとしては2クールでなんとか描ききるのがいっぱいいっぱいくらいの蓄積がある。

 

しかし関連作品「Apocrypha」や「EXTRA」「stay nightの3ルート目であるHeaven's Feel」もアニメ化が決まっており、
「GrandOrder」のアニメ化はまだ先になるか、あるいは「空の境界」で見せたミラクル、章ごとの分割で劇場版化という可能性も十分にある。

 

様々なソシャゲやアニメを見て気になるのは、果たしてソーシャルゲームはコンテンツに得たものを還元するのかどうかという点だ。

 

正直な話、「艦これ」は課金システム自体が弱く知名度の割に売り上げが立っていないように思う。
それもあって(そもそもアニメで語る話の軸がしっかりしていないという予算以前の課題はあるにせよ)「艦これ」のアニメ化は不満が残るメディアミックスだった。

 

一方で「アイドルマスター」はプレイヤーにとっては理想的な還元に近い。
課金は一定額を定期的にする人が多いし、ライブイベントなどもしっかり行われる。


この点、ニコニコ動画のコメント数では勝っている「ラブライブ!」は周回遅れ以上の差をつけられているといっても過言ではない。

 

「アイドルマスター」では作り手と受け手の信頼関係が長年育まれてきた結果(アイマス2での竜宮小町をはじめとした諸々の問題はあったにせよ)、
アニメの楽曲やダンスのクオリティ、赤羽Pや武内P(アニメにおけるゲームでのプレイヤー役でキャラ付けに迷わざるをえないキャラ)の絶妙な人選があったのだと思う。


ただ、すべての作品がそういった循環を生み出せるわけではない。

 

「けものフレンズ」はソーシャルゲームが採算を取れずに終了しており、
はっきりと言えば原作のゲーム以上のポテンシャルが幾つかの要素が重なって奇跡的に出た作品だ。

 

そういった作品はそもそもアニメ化するのが商業的には正解なのかどうかという問題も孕んでいる。

 

一方で「パズドラ」や「白猫プロジェクト」あたりは逆に売り上げ的にアニメなんでやらないの?
という疑問を持つところではある。

 

徹底的にソーシャルゲームをビジネスとして見るのか、もっと長いスパンで考えるとそういった企業やコンテンツは潰えるのか
オタクとしてはソシャゲ以前と以後を比べればある部分は前者寄りになったとしても最後は後者に行き着いてほしいというモヤモヤを抱えている。

 

このあたり、作り手が作品の評価だけではなく金銭で正当な報酬も得てほしいという
以前とは違う感覚が昨今のブラック企業批判も相まって自分の中にあるようにも思える。


「けものフレンズ」のアニメの作り手は評価されるべき仕事をした。
彼らのような人々が仕事を続けるためにも一定の対価が得られる仕組みが出来てくれると嬉しい。

 

愛のないコンテンツに未来はないのだから。

 

その上で作り手の「やりたいこと」と売り上げを立てる商業主義的な「皆が見たいもの」のバランスを取ったのが「君の名は。」で、ブレイクした新海誠監督がその先にいるのだろう。

 

「君の名は。」が「千と千尋」以外のジブリを国内興行成績で超えたこのタイミングで(海外では「千と千尋」も抜いて邦画1位になった)
「けものフレンズ」のような作品が出てきたことにも大きな意味があるように思える。

 

「天才」の時代の終わり。「才能のない普通の人々がどう生きていくか」について

鹿目まどかの決断にもはや共感できない時代

「まどか☆マギカ」から5年以上が経つ。


その間、TVシリーズのちゃぶ台返しをした劇場版「叛逆の物語」の存在には賛否両論があった。

 

TVシリーズにおいて表向きの主人公である鹿目まどかはタイトルに反し、最終回まで魔法少女にならない。


それはマミさんやさやかといった友人を失ったこととキュゥべえの隠していた秘密、
裏の主人公である暁美ほむらの頑張りなどの要因が重なった結果である。

 

そして最終回でそういった諸々を飲み込み、
まどかは象徴的に母親からの言葉を受けた後でワルプルギスの夜という敵に立ち向かうという決断を下す。

 

ただ、TVシリーズの結末は「ドラゴンボールで叶えられる願いの数を増やしてくれと願うこと」レベルのある種の無理やり感があり、
その結果が「叛逆の物語」に繋がったとも言える。

 

まどかは設定的には本来は普通の女の子だったのに「天才」にされてしまった女の子だ。

 

脚本家である虚淵玄氏がちゃぶ台返しを行ったのはそんな普通の女の子である
鹿目まどかが災害的に得てしまった才能とそれと引き換えにした運命は過酷すぎるのではないか?
と感じた結果なのではないかというのは想像に難くない。

 

話としてはキレイなオチは付いている。
でも、まどかはそこまでしなくてもいいんじゃないか。
今見返すとそう思ってしまうようなところがあるのだ。

 

史上最弱のプリキュア呼ばわりされたキュアブロッサムを主役の一人に据えた
「ハートキャッチプリキュア!」(プリキュアシリーズでも名作との呼び声が高い)
がこの頃に放映されていたというのも非常に興味深いものがある。

 

「まどか☆マギカ」作中で魔法少女になるかわりに叶えた願いで一定の理不尽さがまああんまりないかなと思うのは
美樹さやかくらいのものである。

 

しかしさやかにしてもキュゥべえとの契約に際し、重大な瑕疵事項があるのは認めざるをえない。
(この点に関しては事情を把握していた暁美ほむらは責められるべき一定の余地があるかもしれない)

 

「まどか☆マギカ」の後で、主人公が超人ではない場合そもそも分不相応な物語の筋があるというような認識が生まれたような気がする。


これは肉体的・能力的な超人(「ワンパンマン」のサイタマ)ももちろんあるのだが、
精神的に一般人を逸脱したタフさを持つ超人というのが重要なポイントであるように思われる。

 

「ガッチャマンクラウズ」のはじめちゃんや「SHIROBAKO」のみゃーもりは主に精神的な面において超人であり、
鹿目まどかに対するカウンター的なキャラクターである。
(正直、このレベルのメンタルの新入社員を求めるのは初任給に到底見合わないのでやめていただきたい)

 

この精神性を絶妙なバランスで描いたのが「響け! ユーフォニアム」。
スキル的に作中では超人とされる高坂麗奈は(先生とのこともあって)精神的には超人ではない。同じくあすか先輩も一見超人に見えて(親との関係で)超人ではない。
主人公の黄前ちゃんだけが最初から最後まで(姉との関係などでやや危なげな部分はありつつも)何だかんだ超人の域に居続けているのである。
(さふぁいあもそれっぽいところはあるが本筋にはあまり絡まない)

 

正直な話、もう「天才」とか「無敵」には飽き飽きしているというのがあるかもしれない。

 

そういうのは主人公が絶対無敵であるという前提にある
「小説家になろう」を始めとしたWeb系作品で楽しみたい人だけが見ればいいのでは?

 

そんな感覚というか住み分けができつつあるように思える。


むしろ作劇のために設定上万能のキャラクターが最適解を取らないことに対する一定の批判すらある。

 

いわゆる「デスノート」で語られた「キャラクターは作者より頭良くなれない問題」である。

 

「魔法科高校の劣等生」のお兄様はなんで妹に危険が迫る前に問答無用で敵をぶっ殺さないのか?


話が続かないからである。

 

まあ一応の倫理観とかそういったものも無きにしもあらずだが、
言い訳しつつハーレムは築くのに脅威を事前に摘み取らないのは納得行かない部分が多少ならずともある。

 

「ワンピース」のルフィはギア4だの覇王色の覇気だので超人化しすぎてしまって自分を重ねることはもはや難しい。
一方でウソップも強化はされているのだがむしろインフレに正面からはついていけずに親近感を覚える。

 

レッドラインの向こうの新世界、2年後の世界ではもはや凡人の付け入る余地などないのである。
(あれだけ粋がっていたベラミーは不良が改心的なメンタルの変化とともにもはや雑魚と化してしまった……)
コビーも六式を覚えて大佐になった。「鋼の錬金術師」で言えば正面からホムンクルスを倒した超人マスタングの位置までおそらく5年もかからず昇った超人である。

 

「ハンターハンター」はゴンのレベルをリセットし、ジンやレオリオ・クラピカを中心に
まさかの暗黒大陸編に入ったところで安定の長期休載である。

 

ここから再びキメラアント編並の盛り上がりと区切りをつけて物語を終わらせることが冨樫先生に(能力というより体力的に)できるのか、
「幽遊白書」の魔界トーナメントほぼカット再来の予感を感じずにはいられない。

 

話はそれたが、「天才」を主人公に据えないのが「けものフレンズ」だ。

 

かばんちゃんはヒトという特殊な動物ではあるが出来ないことも多いし、
ヒトの中でもずば抜けて優れているという描かれ方はされていない。

 

もう一人の主人公であるサーバルちゃんも普通のフレンズの一人であり、
特技は持っているが「天才」ではない。

 

しかし物語を通じて精神的な成長はしっかりと描かれており、
1話で「食べないでください」と怯えていたかばんちゃんは11話で
サーバルちゃんを助けるために恐怖を押し殺して「ありがとう」の言葉とともに自らセルリアンに向かっていくのだ。

 

精神的な強さにも説得力がいる時代になった。

 

そしてそれはある一定の枠という限界値が作り手と受け手の中で共有されているように思える。

 

その点において、鹿目まどかは無理矢理に枠の外まで出てしまっており
暁美ほむらはそれを受けて劇場版において歪な形で枠を乗り越えたと言える。

 

ほむらならまあしょうがないかな……。
そういうある種の説得力が彼女の設定と演出的にはあり、まどかには足りなくなってしまった。

 

そしてそれを乗り越えて枠を再構築したのが「けものフレンズ」なのだ。

 

かばんちゃんとサーバルちゃんは精神的にも技術・肉体的にも成長した。


しかし、無敵ではない。


11、12話の巨大セルリアンとの戦いの結末はそのバランスを見事に描いている。

12話冒頭から前半終了までの展開を陳腐だと思う視聴者も少なからずいるだろう。
しかし、それは表層的なものであって本質はそれよりもアニメや時代の流れを汲んだもう少し深いところにあるように思えるのだ。

 

「甲鉄城のカバネリ」に不足していたもの

敵として「天才」や万能キャラを描くのもバランスを取るのが非常に難しい。
「ジョジョの奇妙な冒険」はその点が非常に上手く、
一方で近年の作品では「災害や自然といった力押しでは抗えない何か」が敵とされることが増えた。

 

「進撃の巨人」の本当の敵は巨人というよりも「世界の謎」
「僕のヒーローアカデミア」ではヴィランというよりも「才能や信念」
「ガッチャマンクラウズ」ではMESSではなく「時代の空気」

 

このあたりを上手く言い表したのが「ヴィンランド・サガ」の「誰にも敵などいないんだ」という「プラネテス」を経た幸村誠氏が書いた象徴的なセリフ。
あるいは「宇宙兄弟」の「俺の敵はだいたい俺です」だろう。

 

そういった流れを考えるとゾンビものでちょっとファンタジーの入った「甲鉄城のカバネリ」は、あー惜しいことしたな、という作品だった。

 

「コードギアス」の大河内一楼氏が「スペース☆ダンディ」でロードムービーの名作回「旅は道連れ宇宙は情けじゃんよ」を描いた後、
満を持して取り掛かったのが「カバネリ」だ。

 

半分だけゾンビの力を手に入れた主人公が同じく特殊な境遇のヒロインと力を合わせてスチームパンクの空気をまとった列車で旅をしながらゾンビを倒すのだ。


設定だけで既に勝っている。

 

主人公はそこそこ機転が効くが「コードギアス」のルルーシュほどのスペックはない。
秀才ですらないちょっとした理系の兵器オタクポジション。

 

あー良いところ突いてきてる。

 

事実、作品前半の評価は非常に高かった。

 

後半で評価が下がったのが「天才」として描かれたラスボス「美馬様」の描き方が原因といってもほぼ異論は出ないだろう。

 

ラスボス格としてはメンタル的に超人とは言えず甘さがあった。


人類にとっての利敵行為もゾンビものとしてはありがちで、それなりに重かったが描き方がサラッとしすぎだった。

 

美馬様が精神的な超人で完全に理解不能なサイコパスとして描かれていたらむしろ後半の評価は上がっていたのではないか?

 

大河内一楼氏が「コードギアス」で描いた2種類のボス、シャルル皇帝とシュナイゼルを経た後ではあまりに凡庸なラスボスだったと言わざるをえない。

 

ゾンビもので言えば最近完結した「アイアムアヒーロー」はラストというか最終章全体が「えっ?」となる部分があるものの
テーマに殉じた結末で納得感がある。

 

小さくまとまってしまった結果、「コードギアス」で高められたハードルの期待値は超えられなかった惜しい作品が「カバネリ」であるように感じる。

 

「まどか☆マギカ」におけるラスボスは象徴的にはワルプルギスの夜であるが、
実質的には「魔法少女というシステム」であり形のないものだ。

 

そして「けものフレンズ」におけるラスボスは象徴的には巨大セルリアンであるが、
実質的には「勝ち得ないものにどう立ち向かうか」あるいは「それを受けてかばんちゃんの島に残るか外に出るかという決断そのもの」であったように思える。

 

しかも「まどか☆マギカ」でまどかは実質的にはワルプルギスの夜とは戦わなかったのに対し、
かばんちゃんは作中で何度も、そして最後もセルリアンと(それ以外の様々な困難とも)戦っている。

 

複雑化する世界で敵をどう描くのか。


それをシナリオ、映像としてどう表現するのかということには時代を感じ取るセンスが要る。

「けものフレンズ」はその点に対して非常に敏感にアンテナを立ててシナリオを積み上げた作品なのである。

 

もう「天才」は万能を指さない。「個性」を受け入れたけものフレンズ

最後に、「けものフレンズ」が描いた新しい「才能」について語る。

 

「まどか☆マギカ」で鹿目まどかはある原因を元に史上最高の魔法少女としての才能を持つ。


これはマミさんの経験や未来予測能力、さやかの回復力、ほむらの特殊能力といった各キャラの特徴である長所と比較しても
圧倒的に優れた万能の才能として描かれている。

 

「ガンダムSEED」のキラ・ヤマトは最高の才能を持つ遺伝子を調整された主人公だし、
「デスノート」の夜神月は無敵のスペックを誇る主人公だ。

 

~以前・以後などとは言えないが、長い目で見ると主人公は人外化して万能となる(等価交換の法則!)か
特化した能力で天才に渡り合うかという2極化が進んだ。
(完全にどこにでもいる凡人主人公というのは意外と少ないもので、料理がうまいとか趣味や特技の一つや二つあることがほとんどだ)

 

「けものフレンズ」は後者として描かれた作品ではあるのだが、
敵すらも万能ではないという現実や時代に即した解釈を描いているように思える。

 

「Baby steps」あたりはこれの先駆けとなったように思えるが、
主人公の作中の成長速度を客観的に箇条書きすると「天才」と言われていたりすることもあってプロのレベルの描き方のバランスが良くできている。
(まあ「Baby steps」にはリアルに存在するファンタジーである錦織選手の存在を受けてほぼ無敵の天才として描かれる池爽児がいるわけだが)

 

みんなが「あの人は天才だから」とエクスキューズに使うような万能の天才はレオナルド・ダ・ヴィンチくらいしか実際にはいない。
そして、ほぼそれは歴史的な登場人物でしかなく現実にはビル・ゲイツあたりでもなお能力が不足している感覚があり、存在しないのだ。

 

芸能人にしろ政治家にしろスポーツ選手にしろ、人々の目が肥えたり情報が簡単に手に入るようになった結果と言えるだろう。

 

この結果もあって姿形を持つ敵というのは説得力を失ったというのもある。
一方で明確でない敵はこれからも勢力を拡大していくだろう。

 

敵の戦力を過大評価せず、自分たちの才能もきちんと見極めて
それを個性というレベルとして受け入れる。
(ライトノベルなら「マージナル・オペレーション」だが1人称で信用できない語り手であることが3人称を基本とするアニメとの違いとなる)

 

世界を見る目という点において、「けものフレンズ」は非常にフラットな感覚を持っている。

 

それはある意味では野生の掟に起因するものなのだろう。

 

ゆとり教育で上手く行かなかったもの、個性の獲得。
別方向からアプローチして成功例をまざまざと見せつけたのがさかなクンさんである。

 

それを十年越しくらいで消化したのが「けものフレンズ」なのではないだろうか。
(けものフレンズの海の生き物編があったら間違いなく「お兄さん」として彼は呼ばれるだろう)

 

自身の専門外のことについて有名人が語ったり、エセ科学に対する拒絶反応は
この「専門化」の流れに起因しているように思う。

 

非常に均質化された結果や才能という権威ですら多面的ではなくなる、ある意味で残酷で分かりにくい世界。

 

自分の目で見ろ、あるいは心で感じ取って頭できちんと考えろ。

 

そういう時代がそろそろ来てるんじゃない? ということを「けものフレンズ」の「個性」は描こうとしていたように感じるのだ。

 

 

最後に15000文字を超える長文を読んでいただけたことに感謝を。


「すごーい! あなたはぼくのはなしをさいごまできいてくれたフレンズなんだね!」

 

そして「けものフレンズ」新作アニメーションの制作決定の報告を聞いて一言。


「たのしー! やっぱり、もうちょっとついていこうかなって!」