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SHIROBAKOを見てカラマーゾフの兄弟を読んだ21世紀的感想

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どうも、タイヘイです。

 

読書大事、ドクショダイジと小さい頃から大人に言われて育ってきました。

そうは言っても、言っていた母親も含めて周りは全然本(文学)なんて読まなかったですけども。

 

僕はちょうどハリー・ポッターが流行った世代だったのでその前後でラノベと漫画の影響もあって多少本を読むようになりましたが、読んでない本は山のようにあります。

 

特に古典に足を突っ込みつつある戦前の小説。

海外文学なんかはあまり手を出していません。

 

今回読んだのはドストエフスキーの傑作『カラマーゾフの兄弟』。

名作お仕事アニメ『SHIROBAKO』の登場人物で脚本家を目指すディーゼルさんことりーちゃんが作中でドスト祭りを開催していたことがきっかけになりました。

 

読んだ後でちょっとだけ調べた新訳の誤訳問題などにもちょっとだけ触れて、上の世代とはかなり違った感想をまとめてみます。

 

クソ長い、でも面白い。ただ、賞味期限切れてる部分もある

『カラマーゾフの兄弟』はクソ長い小説です。

僕は10年ほど前に出た読みやすく翻訳された版ではなく、図書館にあった1978年の原卓也訳を読みました。

 

上中下で合計2000ページ近く。

普通のラノベなら7~8冊分の量です。

 

21世紀的には既にこの長さでアウト。

1冊目の上巻なんてほとんど話の盛り上がりもありませんからね。

「大審問官」の部分は確かに面白く読めたのですが、そもそもキリスト教的な規範や考え方が現在の時点でほとんど賞味期限切れな部分は否めません。

 

それでもカラマーゾフの兄弟というかドストエフスキーがすごいのは、キリスト教の信仰を思索で深めていったら単なる一宗教の枠を越えて思考実験としてまだ通じる普遍的な問題にまでたどり着いているという部分です。

 

あとは文体の読みやすさ。

 

今の文章に慣れていると一文が以上に長く感じます。

訳の問題もあると思いますが、修飾語がやたらめったら付いていたり接続詞が多い。

改行が少なくて、ページは文字でほとんど埋め尽くされている。

 

でも読めちゃう。

 

文章のドライブ感といいますか、比喩とか分かりやすい癖じゃなくて作家が持つ基本的な性質の部分で読める文体の文章を書くのがドストエフスキーなのです。

 

古い作品にしては異常に登場人物のキャラも立っています。

これも読みやすくしている要素の一つ。

 

ただ19世紀で最高の文学の一つである本作が、本を多少は読む僕(趣味で小説を書いたりもする)でも気合い入れないと読めない、という部分は率直ですが結構重いポイントです。

 

正直、ネットの出現でここ最近の文章はどんどん短くなって戦後から2000年までの小説は文学どころか一般文芸でもかなり読みにくくなっています。

 

戦前の小説はなおのこと。

 

今までは「読むべき文学」に入っていた小説も、半分どころか8割位は読まなくていいから残りの2割を何回も読んだほうが良い、みたいな時代になってきているのを感じました。

 

カラマーゾフの兄弟は残る方にもちろん入るのですが、本筋とは直接絡まない描写や会話が賞味期限切れな部分は間違いなくあると思うのが率直な感想なのです。

 

で、これに絡んで2006年の亀山訳には誤訳が多い!!

といった一連の鼻息の荒い批評はちょっと気になって読後に調べてみたのですがなんというか大人げないなあと。

 

もう文学なんて村上春樹以外全然売れんのですよ。

かろうじて芥川賞の作品が「その作者の作品としては単発で」10万部とかその程度ですし。

 

校正というか校閲も最近ではお金をかけられないこともあるとか、そういった事情もあるかなと思ったり。

 

そもそも小説って部分よりも全体が重要で、特に本筋じゃない揚げ足を取るような英語テストの採点的な訳の批評って誰も得しないのでは……?

 

批評の中で正当性があるのって訳者の意図が反映されたリーザの意訳くらいじゃないですか、と思うのです。

 

この問題に関しては21世紀的には「訳の正確さ」よりも「分かりやすさ」の方に軍配が上がるかな、と。

 

 

物語には出会うべきタイミングがある

しかし改めて思うのですが、カラマーゾフの兄弟も含めて古い作品は相当知識が豊富な高校生か大学受験を経験した大学生くらいじゃないと読めないと思います。

 

並行して『戦争と平和』をちょこちょこ読み始めているのですが、高校時代に一度挫折したこちらは今になってようやく読めるようになったという感じ。

 

これは読書の経験値も必要だと思うのですが、ナポレオンの登場後の19世紀の歴史について多少なりとも知識がないと読みにくいと思うのです。

 

現代の小説でも高度経済成長やバブル前と後だとかなり感覚が違いますし、戦前はもう古典の域です。

 

海外文学だと時代の差とさらにその国の歴史とか(主に宗教的な)精神性について前提知識や感覚がないわけで、読めるようになるにはタイミングがあるのだなあと思ったり。

 

昔なら1ヶ月とか時間をかけて読むこともあったのでしょうが、アニメが1クールで終わる今だと厳しいっす……。

 

逆説的に、小説を読みたかったら世界史を学ぶっていうのは意外とアリな気がします。

 

『戦争と平和』と比べると『カラマーゾフの兄弟』は昔ロシアはソ連だった、その前は(帝政の)ロシアだったという知識程度があれば読めるのでまだ読みやすいですね。

 

まあ先にも話しましたが、今だと本を読むための体力が必要なのでそちらの方を身につけるのが大変だとは思いますが。

 

正直、僕の読書はラノベ中心でカラマーゾフの兄弟を読むには本当は経験値が足りていない感じがします。

 

ちゃんと文学と言える作品って50冊以上100冊未満しか読んでないかと思います。

ただ、自分で10万字以上の小説を完成させた経験があるので、そちらで補った部分があるかと。

 

自分でお話を完成させた後だと、『ONE PIECE』とか『BLEACH』とかそれまでどこか甘く見ていた漫画の演出とかキャラクター造形の凄さが初めて理解できたりしましたし。

 

そういう意味でも、物語には出会うべきタイミングがあるんでしょうね。

 

読みにくいなあと思ったら、無理して読まずにもっと読みやすい本を読んで経験を積むのも良いと思いますよ。

 

萌えキャラ、アリョーシャに隠された裏の顔と『けものフレンズ』の「描かない演出」

 

内容についての感想ですが、主人公なのにあんまり作中では目立たない萌えキャラ、アリョーシャ(男)に読み終わったときなんとなく違和感を感じたんですよね。

 

基本的に良い人で、誰にでも好かれるというハーレムラノベの主人公的な彼ですがどこか腑に落ちない。

 

そこで思い出したのが、ヒットしたアニメ『けものフレンズ』最終話の火が付いた紙飛行機の演出です。

 

簡単に言ってしまうと、主人公の相棒サーバルちゃんが1話で主人公が作った紙飛行機を画面外で学んでいて折り、それに自分が苦手としている火を付けて飛ばすことで敵の注意を引くという展開です。

 

このシーンでは、紙飛行機を折って火を付けるという準備のシーンが意図的にカットされています。

 

カットしすぎると意図が伝わらないし、カットしないと陳腐になってしまう。

そんな絶妙なバランスで成り立っているシーンなのですが、アリョーシャの人物像の裏側にはこれに近いものがあるように思ったのです。

 

カラマーゾフの兄弟作中でアリョーシャはほとんど出会う人すべてに好かれ、また他人に対して柔らかい態度で接します。

 

スメルジャコフに関してはそうでもないですが、家の使用人に対する態度と思えばそこまででもないかと思います。

 

(異母兄弟の可能性もあるし知ってもいるが、基本的にスメルジャコフは使用人夫妻に育てられたために兄弟という感覚は薄くむしろより使用人枠として扱っている?戦後日本だと養子って珍しいですからね。イリューシャの件で養子の話にかすっているし、現代と感覚が違うはず)

 

そんなアリョーシャは事件が起きた後でも兄であるミーチャやイワンに対しては信頼を崩しません。

むしろ、兄はやっていないということを確信めいて信じており、その信頼はむしろ事件前より厚くなったような感さえあります。

 

ただ一人、事件の被害者である父フョードルに対する言及だけが極端に少なくなるのです。

 

 

アリョーシャが尊敬していたゾシマ長老の事件の後で還俗してからのカラマーゾフ事件。

 

ここでは裁判のシーンで弁護人が被害者であるフョードルを積極的にディスるのとは真逆に、アリョーシャは兄ミーチャをアゲる形でしか証言をしません。

 

事件がいざ起きた後では父に対する言及を極力避けることで、アリョーシャのイメージを良い人・萌えキャラに保ちつつラストのエピローグを上手くまとめようとした「叙述トリック」的な部分があったのではないでしょうか?

 

構想されていたという2部では皇帝殺害事件が起こってそれにアリョーシャが何らかの形で関わるという説があります。

 

1部であえて描かなかった内面部分の説明があったり、あるいはその説明をしないままで話を進めることで空白を読み取って答えを見つけるように予定していたかもしれないというのは考えすぎでしょうか。

 

 

りーちゃんは脚本家になりたかったら仮面ライダーを見たほうが良い

SHIROBAKOの中でドスト祭りを開催していたりーちゃんは脚本家を目指しているわけですが、そんな悠長なことをしている場合じゃない気もします。

 

最初に触れた、「賞味期限切れ」の部分があるのでプロになりたいなら古典を読むよりかは売れてる作品研究の方が意味があるかなあ、と。

 

もちろん、基礎とか土台を作るという点では古い作品も大事です。

 

古い作品ならドストエフスキー以外にもカフカとかカミュの『異邦人』なんかは読むといいんじゃないでしょうか。

 

ただ、最近の作品になると文学は本当に微妙というか完全に死に体。

 

商業的成功が必要になるアニメだと、現代文学で役に立つのって村上春樹と一部の村上龍作品くらいじゃないでしょうか。

 

実践的には人気の海外ドラマの1シーズン目とか、国内だと平成仮面ライダーの方が勉強になる気がします。

 

あとは漫画とアニメ。

 

脚本的な演出力だとヒットした漫画は本当に練られて作られているのがわかります。

アニメだと『コードギアス』のヒキとかスゴイですね。

 

今だと脚本家の道ってどこから入るんだろう……。

 

虚淵玄氏なんかは美少女ゲームのライターで積み上げてFateのスピンオフ、まどマギや仮面ライダーの脚本をやったわけですが。

 

今だと美少女ゲームは本当に売れないし、このルートは厳しそう。

 

ライトノベルで原作者になるのが一番かな?

でもラノベも(文学に比べれば天国であるにせよ)今はめちゃくちゃ厳しいですからねえ……。

 

絵が描けなくても漫画の原作者の賞に応募とかが良いかもしれません。

 

あとは小説家になろうとかカクヨムとかで流行り物を徹底的にマーケティング調査して書いてみたり。

 

カラマーゾフの兄弟が生まれていない世界で、今の時代にネットにアップされたら光が当たるかどうかというのは非常に気になる所のような気がします。

 

 

 

いろいろ脱線する部分もありましたが、やっぱりカラマーゾフの兄弟は名作でした。

 

今回は結構足早に読んだので、2,3年以内に読書と書く経験値を貯めてもう一度読み直そうと思います。

 

ありがとうございました!

 

上中下の上。僕が読んだのはこちらです。

本を読む習慣が結構ある人が気合を入れてようやく読める本。

 

 

読みやすいけど誤訳が多いと言われたりする新訳版。

個人的には訳よりも冊数が5冊なのがネック。